英国近代史(3)家計の優先順序・生存とその戦略、自作農と小作農の所得格差、家計破滅と凶作と疫病の勃発、子供の職業的自立と結婚と相続経由の財産移転、段階的家計分散と将来性の確保、

 

(訳注)家計を英国の社会経済システムの基本単位としてとらえ、その家計の生存が英国近代史のすべての源泉だととらえている。この視点は日本の歴史の視点からは全く度外視されていたことに驚く。そこでこの家計は何を優先順序としてきたのか。当然ながらその生存、生き残りがすべてである。そのためにどういう戦略がとられたか。その視点は生存を保証する原資の流れの維持に尽きる。16世紀農業の自給経済を中心とした社会では、すでに自作農と小作農では市場へ供給する余剰農産物の規模で大きな開きが生じていた。自作農は当時でも多大な現金収入を得ていたが小作農はその余剰は少なく自作農と小作農の間に大きな格差が生じていた。さらに小作農に追い打ちをかけたのは年ごとの不作凶作の格差だった。市場経済を手に入れた自作農たちは凶作時は価格高騰の恩恵を受けていた。しかし小作農にとっては壊滅的な打撃だった。こうした将来の不確実性は凶作不作だけではなくペストを含む疫病や感染症の流行がさらに彼らの将来不安に追い打ちをかけた。平均寿命33歳と言われる家計のメンタリティは加速度的に保守的になっていった。しかし彼らの優先順序は将来の幸福福利に目が向いた。結婚、子育て、子離れ、相続の要素が16世紀英国の家計の主流になった。子供を中心とした労働の再分配がいわば「職安」のようなあっせん機関で扱われていたことは驚きである。

 

 

それではここから家計の優先順序とその達成しようとする戦略に話を移します。まづ最初の優先順序は当然ながら生存です。(1801)それは家計が依存している資源の流れを維持することに尽きます。今日ではそれは給料でしょう。16世紀にはそれは一方に自給と他方に市場経済の様々な組み合わせである。ほとんどの田舎の家計は依然として基本的な食糧の自給に過度の傾斜していた。依然として家族労働に依存した小規模生産者のそのほとんどが自家消費に充てられる自給経済に軸足を置いていた。勿論それは地域地域で社会社会で異なってはいた。ほとんどの地域には前回述べた少数派の大規模な自作農がいた。彼らは中間距離から遠方距離までの市場の農作物に標的を合わせ、町などにそれを提供しかなりの規模の市場経済に組み込まれていた。(1903)

 

しかしこれは農業史家のMark Overtonによって80%の16世紀の英国農業が実際にこの農業家族自身による食糧生産によって行われて、わずかな部分が市場に提供されてきたと見積もられてきた。家計資源の流れが自給や市場販売された農産品によっていたことは彼らの生活が最低限のものだったことを意味する。今言ったOvertonは当時の農家の期待所得を計算した。100エーカー以上で小麦の畑作をした大きな自作農は彼の家族を養った分だけでなくOvertonの見積もりではざっと年70ポンドを稼ぎ極めて大きな所得となった。その一方で10エーカー以下の小規模な農家は年2,3ポンドを稼ぐ程度しか残らなかった。(2004)彼らが生み出した現金収入の面では相当の開きがあった。多くのこれらの家族小規模農家の家族の通常時の普通のマージンはわずかしか残らなかった。これらの見積もりは凶作や不作の時には大きく変質せざるを得なかった。不作の時は大規模農家は大規模自作農は家族が食うには十分で供給不足のために価格が跳ね上がり、依然としてかなりの収入があった。

 

しかし小規模農家では自分の家族が食う分も十分ではなく地代の影に没落し、高騰した市場で小麦を購入しなければならなかった。破滅的状況に落入った。土地を持たない賃労働者はもっと悲惨だった。自分の食糧を生産することもできず非常に高い価格で買わざるを得なかった。(2100)不作の年は比較的まれだが予測がつかない。1520年代で2回ほど凶作の年があった。1550年代では3回他にも1590年代にも凶作の年が続いていた。これは生命の危機である。なぜ人々が日記の記録に残したかは収穫に向けて天候を心配していたからだというのは十分に理解できる。他の不確実性の要素も同じように予測不可能だからだ。当時の高い死亡率も同じように脅威だった。最悪の環境は疫病の突発的流行だろう。通常の疫病としては鼠径部ペストはあった。疫病が一度都市を攻撃すると、定期的に全人口の20%から30%が数か月の中に死亡した。(2200)北イングランドの最大の都市York市では1485年から1550年までの間に少なくとも7回の鼠径部ペストの流行があった。

 

これも定期的に打撃をうける大きな人命の危機で、感染した家計の崩壊をもたらした。疫病以外にも今日だったら抗生物質で治療できた感染症の脅威に常にさらされていた。これが高い成人の死亡率を意味した。60歳以上生きるのは極めてまれでまた、女性の出産時の死亡や事故死などもその原因だった。これらの脅威が繁栄と貧困の要因でどの家計でも間の悪い事故死が絶対的な破滅の要因になった。(2304)この時代には生命保険などはなかった。この時代にはあとに残された人への年金もなかった。16世紀の平均寿命はおよそ33歳だった。平均である。20代まで生きたら余命は40代だがほとんどの人は40代か50代で死ぬ。こういった陰気な現実を環境リスク家計の脅威に加えると生き残る可能性は明らかに人々の精神面に影響を与えたことは確かである。当時の人々は変化や成長よりも安全安定に傾きがみられた。彼らの経済的戦略は特に機会を最大化するよりも大きく防衛的なリスクを最小化する傾きがみられた。(2404)

 

彼らの第一の優先順序は生存である。第二の主要な優先順序は家計のメンバーの将来の幸福に対する準備と彼らが若ければ彼らの将来の適切な年齢での家計を維持する可能性の準備である。この過程の中で人生の家計の3つの重要な時間がある。子供たちを必要な時に世間に送り出すこと、それから結婚とそれに伴う万端の整備、そして相続を通じた新しい世代への財産の移転である。これらすべての局面は結局段階的な家計の分散を意味する。まず若い人が関係する最初の分散局面を見てみよう。彼らが家を離れ他人の家計へ召使としてまた奉公人として入ることである。(2500)召使の施設は他人の家計の必要性に応じて設けられる。ある家計のある時点でたいがいは毛織仕事ができるが家で十分には実際役には立たない年齢に達した子供を持つより貧しい家がその労働を必要としなかった。しかし他の家計では子供がまだ働くには幼くて一時的であれあるいはすでに子供が成長し家を離れたので永久的に追加的労働が必要だったからである。手元資料の裏を見てもらうと16世紀のいくつかの家計の例が載せてある。

 

これは16世紀の手書きの資料で一番下に載せてある。これは当時の市勢調査からの資料である。この自作農の家計では(2603)子供がいないが多くの召使がいる。そのうち何人かは小作農と書かれている。彼らはこの自作農家の家計に住む農業作業者であり、そのほとんどがかなり若いことが見て取れる。彼らは十代後半か二十代前半である。これが16世紀の特定の時代の家計である。このシステムの基本的ロジックは一つの家計から他の家計に必要性に応じて子供を移転することだが、もっと必要なことは奉公は若い人がスキルを身に着けることであり経験を積む道でありわずかな賃金だがそれを貯めることでもあった。これはまた若者をその生まれた村から離れて地域を超えて再配分することでもあった。彼らは親方から親方へ住んでいた地域を超えて、その地域に役立つ経済的機会を徐々に身に着け十分な年齢に達したら年季奉公明けとともにどこかに恒久的居を構え、結婚し、自分自身の家計を作ることだった。(2720)

 

またしばしば年雇用の召使として雇用市で雇用されその女性はAnn Kussmaulと呼ばれ召使に関する素晴らしい本を書いている。彼女はいかに小さな町でも雇用市があり家計が地域に分散していても雇うことができたと書いている。そして親方に雇われていた人は別の地域の雇用市に連れていかれたとも書いている。年が過ぎ去るとともに召使はその地域の中を行ったり来たりすることになった。(2808)