英国近代史(2)女性労働と都市労働、家計の補助と家事労働、女性労働の柔軟性と順応性、女性労働と家計の再生産、家計の独立と結婚と出産と子育て、家事労働と女性の自尊心、小児の就業教育と学校教育、家庭経済と職業教育

 

(訳注)男性を中心とした農業経済の家計単位から都市を中心とした女性と小児の労働単位を見ている。16世紀においては女性は法的に男性の従属的地位に預けられたにもかかわらず、特に都市家計ではその生産性の低さから家計の補助のため女性が家事労働の延長線で活躍した。それは農業の季節労働であったり家事労働の延長線の織物や裁縫編み物選択など多岐にわたった。朝市での牡蛎売りの女性の話は現代日本でも全く同じである。そこには女性の法的地位の差別にもかかわらず極めて柔軟な感覚と順応性が見て取れる。そこには家庭を支えるのは男性だけではなく女性の家事労働の永久性に対する自尊心があると教授は言っている。その最大の女性の役割が家計の再生産である出産から子育てまでの一連の家事労働である。現代と違って農業中心型労働集約型機械化以前避妊以前の経済社会では女性は他に方法はなかった。それは一部に学校教育は始まっていたものの家計の目的は自立のための職業教育であり、学校教育の基本もこの就業支援に他ならない。日本の女工哀史にもみられたような繊維産業の小児労働搾取はこの16世紀にも続いていた。

 

 

 

都市の職人や商人の家計は少し違った形で行われた。女性は公式にはこれ等の仕事を学ぶことができる徒弟職工の仕事からは除外されていたが、多くは多くの面で非公式に学んでいたことが多くの女性の影が主人の仕事の様々な面で見えることが資料から明らかになっている。パン屋や肉屋で水を運んだり砂を運んだり主人に代わって原料を買ったり製品を売ったりして主人の仕事を手助けしていることが分かっている。(1006)どうしてこういうことが分かったのか。地域生活を統治した多くの裁判記録が残っていることから人々が何をしているかわずかな光が見えていた。Norwichのある都市で妻は喧嘩をしてる大工の夫に代わって川に降りて木材を買っていたなどの記録が残っていた。こういった人々の活動の様子がかいま見えた。職人の妻は家計ベースの職人仕事の生産に参加することが少ないのはこの家計の生産性は高くないからである。彼らは外に働きに出るだけでなくこの女性たちは家の生活費を稼ぐためにあらゆる種類の労働に従事していた

 

時には農業の季節労働者として、また紡績業の手伝いをして織物の糸をつむいだりしていた。(1103)縫物や編み物や洗濯などすべての家の外で仕事をしていた。北西にあるChester市ではドックでは踏み車で動くクレーンを操作していた。誰かが歯車の中に入って足踏みをするとクレーンが動くように回転した。誰がその輪の中に入っていたと思う。女性だった。そしてまた多くの女性が様々な形で細かな仕事についていた。Rose Hearstと呼ばれる人の仕事が残っていた。彼女はEssex州の海岸のMaldonで生まれ週2回の市の日に15マイル離れた郡の町に牡蛎を売りに出かけた。彼女はロバを持っていたと思う。下記の入ったバスケットを15マイルも担ぐのは冗談ではなかった。ともかく週2日牡蛎を売っていた。(1201)全体として女性の仕事は家計の異なった環境に応じて家事を超えて内職や補助の収入まで拡がっていた。その組み合わせは様々だが一般的には性差に応じた期待された役割は柔軟性と順応性に富んでいた。

 

Mary Priorはこの時期の女性の仕事について素晴らしい記事を書いている。要約すると「男がしたことは限定的で良く言って限界があり、職工と商売だけだ。女がしたことはそれ以外のすべてである。」ある面では少し男に不公平で彼らもそれなりに一生懸命だがこれは真実である。この家事労働の義務の日常的な展開はさらなる文脈へと展開していった。女性の再生産の役割である。それが居住生活の価値について少し問題を残した。この時期のほとんどの夫婦は20代中頃から後半にかけて結婚した。彼らが比較的遅く結婚したのは彼ら自身の家計ができてからだった。(1314)教区の登記を調べた歴史人口統計学者は人々の結婚と子供の洗礼等を詳細に調べて明らかにした。それによると平均的な夫婦は結婚後18か月で第一子を設けた、それから続いて彼女が生きていれば平均2,3年の間に出産期間を置いて第2子を産んだ。このことは16世紀には英国の平均的な女性はその成人生活の4分の3が妊娠してその子育てに悩まされていたことを意味する

 

この出産が全成人生活にわたってい一定の間隔を置いてみるとある子供は十代で仕事に就くが、次の子はまだよちよち歩きの幼児であることを意味した。(1406)常に子育てに悩まされた。Thomas Tusserが16世紀の中ごろに言ったこと「家事は最後まで終わりがない」は驚くにはあたらない。彼らの法的な従属関係にかかわらずこういった複雑な環境に順応した役割の遂行は女性の個人としての立ち位置がその家族の中での隣人に依存し、これらの役割の遂行から疑いなくその自尊心から生まれたものである。農業が優先していた労働集約型の低生産性の機械化以前の避妊以前の時代には他の道は難しかった。また同じ理由から(1501)子供たちは彼女と遊ぶこともまたその一部だった。

 

16世紀にもわずかな少数派の子供は公式の学校教育を受けていた。その数は16世紀初めには多分10%ぐらいだと見積もられた。ほとんどの子供たちはその生活の知恵を実際に家庭で学び、召使として初めからできるようになったらすぐに家庭経済に参加することを期待されていた。これは搾取的に聞こえるかもしれないが誇張したものだはない。こうした参加は人生の教育の一部であり子供たちはこうして適当な段階で仕事を指導されていた。こうした証拠は枚挙にいとまはない。しかし7歳から8歳で彼らは自分ができる範囲の仕事に就いた。(1600)羊や牛を飼ったり、刈り取りをしたり、薪を集めたり、モノを運んだり買い物に行ったり、果物を摘んだり、畑の鳥を追い払ったり、などなど。当時の検死官の記録をもとにしたオハイオ州大のBarbara Hanawaltの子供たちと子供たちの労働活動のユニークな研究がある。誰かが早逝すると今日と同じように検死官が検死をしなければならないが、彼らはすでにそのシステムを持っていた。残っていた子供の死亡を扱った検死官の記録によると彼らは当時死につながった事故で何をしていたかが分かる。これを見るとその年齢とどんな仕事についていたかが分かる。例えば小さな少年が父を手伝って木を切っていた時斧が頭に当たって悲しいながら死んでしまった。あるいは小さな少女が水汲みに行って井戸に落ちたなどなど。(1702)こうした証拠から歴史家は想像をたくまくして子供たちが徐々に彼らの労働生活に入っていた様子を再構築した。(1709)子供の搾取的労働として維持され繰り返されたものは存在はしたが比較的少ないが特に深く関わっていたのが紡績産業である。そこでは子供たちが長時間羊毛を毛羽立てたり、紡いだりしていた。16世紀の家計の労働手段の単位でありそのメンバーの役割は当時の適切とする男と女と子供の役割考えと価値に応じて様々であった