Yale Open Course

英国近代史

Keith Wrightson

3. Households: Structures, Priorities, Strategies, Roles

 

(1)  家長制と権威の単位、生産と消費と再生産の単位、労働手段としての単位、家父長制とイデオロギー

 

(訳注)今回からは16世紀近代英国の社会の基本単位である家計の在り方を見ている。その定義は家長を中心とした権威の単位でありそれはイデオロギーだと言っている、生産消費そして再生産という経済循環の基本単位であり、労働手段育成の基本単位であることだ。歴史学における社会学視点や経済学的視点がここから始まっている。政治的には貴族階級や騎士階級が土地の管理の拠点としたのが規模は大きいがこの家計の拠点だった。政治的威信を維持するために血縁関係者のみならず召使や奉公人などの契約関係者もこの家計に組み込んでいた。しかし当時の英国では圧倒的に核家族を中心とした家計が多かった。この核家族家計は子の結婚とともに新しい独立した家計を構築することが習わしとなりその権威を維持するために法律で子の家父長制を強制した。しかしこの家父長制のイデオロギーは現代家計と比較すると構造的にも概念的にも機能的にも大きく相違していた。それは家計が生産と再生産の拠点だったことに由来している。農業であれ工房であれ彼らは生活手段としてこの家計を労働の教育訓練の場として権威主義をもとに構築した。女性は家事労働に従事してこの家計の経営を助けた。役割の分業が始まった。

 

 

 

前回は16世紀に認められた極めて重要な社会的差別といかに人々が社会を全体としてとらえてきたかを見てきました。今日は別の尺度から社会の基本的な単位として家計を見てゆきたいと思います。この単位はほとんどの人が人生を過ごし彼らの日常活動のほとんどを支配しているものです。そこでまず定義から始めましょう。家計はまづ最初に住まいの単位として定義することができますが、前回話したように権威の単位として定義することもできます。同じ屋根の下に通常は男だが時には寡婦の家長の権威の基に住むある関係を持ったまた無関係の人間の集団として定義できる。それに加えて家計は(0106)生産と消費の単位としてまた再生産の必要を満たすための働くための手段として認識された。家計の多くは共通点を持つが、その規模、構成、そこに含まれる関係の複雑さなどがある。

 

貴族階級や騎士階級の家計など社会的尺度の頂点を見ればその規模は非常に大きく、時には広大な施設を持っている。そこには貴族の家族だけではなく期待される同時代には貴族の品質と考えられた荘厳さを維持するために組織化されたものだけでなく土地財産の管理拠点でもあった。彼らの政治権力を行使する地方政府の活動の中心でもあった。一つの例として南ヨークシャーの概ね中央にあったPontefract城は(0205)Darcy侯の居城だった。1521年に残された彼の家計のリストには80人の人がDarcyの家計に載っていて、彼の家族や彼らと一緒に住むその家族の延長上にある者が載っているだけでなくその家計とその財産の管理者が載っていた。彼には一緒に住む地方の紳士や使用人など彼の世話を受ける多くの若い人たちがいた。彼が1523年スコットランドとの戦争のためにヘンリー8世に呼ばれた時、彼は個人的な護衛としてそろいの制服を着た彼の家計のメンバーである23人の若い者を連れていた。この人たちはDarcy侯のライフスタイルを維持するために(0258)苦心して作り上げた家の財産でありこれは当時の最大の家計であった。(0302)もっと数は少ない人々では当然その所帯も小さく苦心も少なかった。

 

通常は基本的に核家族の家計が中心で、夫と妻と子供たちだが、まれに親戚の人は共同生活をしている場合があるが、これが重要な問題である。これがあらゆる結婚したカップルは独立した自分の家計を持ち、事実結婚するまではそうしないという共通の文化的様相の反映になる。人は親戚とは共同生活をしない。いろいろな面で現代風に聞こえる。しかし忘れてならないのはこの時期の家計の大きな少数派は彼らの中心的核は核家族だが平均よりももっと大きなところでは血縁関係者が一緒に住むだけでなく血縁関係ではなく召使や奉公人など契約関係の人々を含むことになった。(0402)16世紀の家計はある面で家族的に見えるが、大きな少数派は異なったもので現代の家計とは3つの点で異なっていると言える。そのかなりの数が召使や奉公人という契約による家計関係者を含むという点でまず構造的に異なっていた。それから当時の家族について話すとき直接の血族だけでないことが概念的に異なっていた。その用語の意味は全ての家計のメンバーを意味していた。召使や奉公人もその家族のメンバーとみなされ、家族と呼ばれていた。概念的に異なっていた。

 

更にまたこれらの人々は通常現代の家計の機能ではそれを超えたものととられているから機能的に異なっていた。(0506)我々は家計というと住居や消費や子供の養育や感情の支援の場の単位としてとらえがちだが、16世紀ではそれも当然だが16世紀の家計ではまた今日の家計とは一致しないもっと拡張的な機能を持っていた。それはそこが生産の単位だったからである。そこは農場だった。そこが工房であった。そこは特に若い連中の仕事のための教育や訓練の場であった。その意味で私がもっと多くの幅のある機能としての職業の準備の場だと言った。さて労働の単位や居住の単位としてすべての家計は相互依存の関係にあった。その維持とその存続は全てそのメンバーの貢献に依存していた。(0600)前回見たようにそこには家父長制支配社会の、その意味では権威が伝統的に一般的に成人男子の家父長の基にあるというイデオロギーがあった。権威の構造についてのこの仮説は法律に具現化していた。前回云った女性に関する財産法を思い出せば明らかだろう。

 

しかしこうしたイデオロギーと法律の緊張関係はあるけれども女性の家計における役割は欠くことができないし、このことは完全に認識されていた。家族を彼の労働によって維持し家事の運営の権威を行使しある面では召使いや奉公人を訓練をするすることは家長の義務だった。家計の女主人の義務は当時の用語である「housewifery」(家事)に要約される。(0701)そこには現代の主婦の概念とはそれぞれに違った範囲を含む活動である。家庭環境の維持に焦点をあてたものではなく、当時の住宅は非常に単純で、ほとんどの人は2つか3つの部屋を持つ住宅に住み家具も極端に少なかった。人が死ぬとその財産はすぐに整理されたことから当時彼らが持っていた所有していた家財はショックなほど少なかったことを学んだ。Lincoln県からの職人は1540年に亡くなったが、彼の残した家財はすべて含めてわずか22個のアイテムしかなかった。そのアイテムとは3つの基本的な家庭生活に関係したもので、寝場所と座る場所と食事用品(0805)角製のスプーンと木製のボウルと22個のアイテムがすべてだった。16世紀に彼らが理解した家事とは家庭環境とはそれほど関係がなく日々の家計の消費を支えるのに必要なものだけだった。

 

食事の準備が中心で衣類を作ったり直したりベッドメーキングと家計の維持のための全般的な準備だけだった。1523年Anthony Fitzherbertが書いた「主夫業」という本には自給生活に当時の家計に関係した田舎の無数の家事活動の詳細が描かれている。豚の飼育、家禽の飼育、酪農経営,麻や亜麻の栽培、家族の布を作るための糸紬、羊毛刈り取りの準備、畑や納屋の労働、そして市場での販売まで。(0914)女性はもっぱらあっ形で生産したものの日常的な販売を手掛け、卵、家禽、豚、穀類、そして必要に応じて家計生産ができなかったものの購買を行っていた。