近代英国史(5)権威の形成と徒弟制度の社会化、長老支配と年功序列システム、経済的自立と権威の享受、Commonwealthの機能化と有機化、神の思し召しと自然の摂理、近代英国の価値観の形成

 

(訳注)16世紀英国の社会構造。社会秩序の形成過程を若年労働者の奉公人制度からまとめている。その背景の一つが現代とは全く裏腹に圧倒的出生率の高さと寿命の短さに求めている。全人口の65%が10代後半から20代前半の若年者で占められていた。そこで社会的秩序の形成の基本的要素として権威の形成と徒弟制度があらゆる社会的側面で導入された。我が国も戦前にはあった年季奉公と年季明けという職業訓練制度である。この徒弟制度は現代の学校制度に引き継がれている。スキルを身に着けた熟練職人は新たな親方として権威化された。経済的自立が権威の享受の前提となり、男性頂点社会を形成して今日に至っている。それが社会の全体を支配している長老支配と年功序列システムとして社会秩序の安定化に寄与している。この社会的理想からはかけ離れた不平等主義はCommonwealthという価値を追求した結果だと教授は言っている。構造化と階層化という不平等現実主義は共同体という共有財産を形成するためには必要不可欠なもので、アメリカやイギリスが平等主義を嫌う背景になっている。キリスト教はそれが神の思し召しであり自然の摂理なのだと説いている。

 

奉公人は一般的には若く、年を取っていても14歳から20歳の半ばぐらいである。一般的には年契約で雇用され彼らの主人や女主人と一緒の家計の中で暮らす。労働の対価として食事や衣類や部屋や年に一回の少額の小遣いを与えられた。ある奉公人は特定の家に数年もの間働き彼らの主人や女主人と固いきずなで結ばれたが、ほとんどは年の終わりには他に移っていった。彼らは雇い賃目当てに転々とその地域の村から村へ家計を回って最終的には20代半ばで結婚した。町での奉公人の務めは多くは家事手伝いでそのほとんどは女性だった。ある町では不均衡な性別の差が女性の多さで起きた。田舎では男の奉公人も女の奉公人も農場で働き家事労働と農事労働中心に働いていた。彼らは農業奉公人と呼ばれ農事作業に従事していた。いずれの場合も16世紀イギリスでは奉公人は大きな差別化された社会の一部だった。差別化された労働力の一部であった。他の家計の中で奉公人として働いていたのは全体の人口の4分の1を多分占めていたと見積もられた。そしてまた彼らの人口は15歳から24歳までの人口の60%を占めていたと推計されている。(3614)

 

これは若い人たちの人口の差別化された要素であり生活の差別化された側面であった。彼らはその主人や女主人の権威の基での生活の段階を通って多分社会的期待を形成していったと思われる。特に権威に対する期待を形成していった。彼ら自身の社会化を学んでいった。徒弟見習いは圧倒的に都市のもので通常はそのほとんどが10代後半から20代前半男性のものだった。(3702)徒弟見習いは仕事を習うために家から出された7歳から10歳の小さな子供と考えがちだが、事実は現代の学生のようなものだった。一般的には10代後半から20代前半で年季奉公証文に拘束され法的に親方に数年間商売を学ぶために年季奉公をする契約だった。通常徒弟見習いは都市への移住者だった。彼らは商売を学ぶためにやってきて親方に結ばれて奉公人のようにその数はたくさんいた。1550年代ロンドン市の人口の10%が徒弟見習いだったと推計されている。奉公人との違いは彼らは訓練の全期間を親方と一緒に生活した。その期間は通常は7年間だった。

 

彼らは優れた地位を享受し優れた人生の将来を嘱望された。(3801)ある日彼らは熟達した職人として彼ら自身が親方職人としてその差を良く知っていた。しかしその間は彼らもまた彼らも親方の権威の下で生活していた。ほとんどの若者は従属関係の下で生活しそこから社会的アイデンティティを持つと彼らがそれまで生活していた成人の家長の権威と合体した。最近あった例を紹介すると、私が17世紀初めの疫病流行時代の教会の信者の死亡記録を見ていた時ショックだったのは奉公人は彼ら自身の名で記録されていなかったことである。奉公人が疫病で亡くなると埋葬され教会記録では「Robert Fosterの召使とかJohn Atkinsonの奉公人」と記録され、奉公人たちの実際の名前は一切触れていなかった。埋葬されたときは彼らは匿名で主人や女主人に帰属する者とされた。(3910)これは一種の上位者に対するアイデンティティの水面下の社会的秘密としてショッキングな例だった。家計以外でもこの時代に流行した理想はいわゆる「長老支配」的な考え方だった。つまり老人が支配し若年者はそれに奉仕し尊敬するというものだった。

 

当時のモラル主義者は彼らが若者について書いたときそれは時代の希望であるとともに危険なものという固定観念で見ていた。若者は慣習的に情熱のままに短兵急に不意に過度に性的扇情に突っ走るものと見ていた。(4000)この考え方がどこから来たのか今では考えられない。知恵と自制はただ年齢から来るものとみなされ、従ってすべての制度的設計の中では年齢と年功序列が優先した。いわば、今でも同じだともいえるが、一つ重要な違いは16世紀や17世紀では人口のはるかに大きな割合が若者だったことである。当時の高い出生率と短い余命が意味したのは今日よりも人口ははるかに若かったことである。はるかに少ない人が50代まで生きてさらに少ない人が60代まで生きられた時にこれらの権威的立場を享受できた。そこから若者も従属関係の中で生きてきた。真の大人扱いは結局結婚し経済的独立を果たし彼ら自身の家計や工房を持った時だった。(4105)それから若者は家族の主人へと変質し若い女性は家族の女主人へと変質し、彼らの社会秩序の居場所がそれに従って上方へシフトした。そこから指摘できることは彼らのランクの違いは大体において家計における性差はあるものの公衆分野での男を頂点とした構造は依然としてその地位を保持している。

 

以上を要約するとこれは非常に高度に構造化され階層化された社会であることである。社会的理想からは不平等な社会である。そこに取り入れられたのはcommonwealthとしての全体的に有機体としての考え方であるが人々が一度制定するとその機会と経験ははるかに統一的な同一的な形態とはかけ離れ、構造化された不平等は社会の自然な秩序の一部と受け止められた。(4203)事実それは神の思し召しと受け止められた。これは優れて田園社会でほとんどの人がその糧を土地から取得したが大きな少数派は製造業や商業に従事した。依然としてほとんどの人は彼らの糧を土地や商業の実践から比較的に独立的に得ることを熱望したが、大きな少数派はすでに彼らのスキルや労働を他人に売ることに依存していた。構造全体を通して家計は主たる場所として居住だけでなく経済的生産の場所であり、主人と女主人の下で最も直接的な権威の単位であった。非常に大きな範囲までこの時期の社会的組織は家計に焦点を当てた国内組織だと言われてきた。(4306)貴族の大きな家計であっても君主の家計であっても質素な家計だった。次回はいかにこれら数千の家計が機能したかを詳しく見てみたい。男性の役割。その中の女性や子供の役割や彼らの優先順序や戦略、彼らの基本的価値はいかに形成され彼らは生きてきたか。田園社会の土地資本主義と都市社会の商業資本主義、家計中心経済の生産と消費、