(2)Commonwealthの共同体主義と権威の階層的従属関係、社会的ヒエラルキーの頂点と王、神の指名と戴冠式、貴族階級と騎士階級、土地所有権の相続と富の源泉

 

(訳注)16世紀のイギリス階級社会の実態を解説している。Commonwealthという共同体理想主義はその機能を果たすためには一定の役割分担が必要だった。そこには王をヒエラルキーの頂点に据えて聖職者である主教と貴族階級と紳士階級という階級社会を構成し、神の指名に基づき支配権を統帥する王の役割を戴冠式によって具現化させた。その王を支える貴族階級と戦時に奉仕するknightの称号を持つ勲爵士が貴族院を構成し現実的な支配の証とした。それぞれ貴族階級にも紳士階級にも爵位を与え序列化した。しかし現実的な社会の支配体制の源泉は彼らがイギリスの土地の絶対的所有権を保持していたことである。イギリスの40の郡にはそれぞれが基本的な農地を保有しこれを平民である農家にそてぞれ賃貸しその地代こそが彼らの富の源泉だった。同時にそれが権力の源泉だった。こうして王を中心とする神の支配と世俗的支配の両輪がイギリスの社会構造の基になった。

 

 

Dudleyと服従の説教書を一緒にすると一定のCommonwealthを中心とした共同体主義の世界の理想を認識し得ただろう。しかし一方ではこの理想は社会における地位に応じた一種の権威と従属関係の段階的な階層を維持することによってもっともよく機能することが仮定されていた。事実Dudleyが描いたように三つの階層は一つの上下関係の階層にシャッフルされ、人々はまるでその列の中で行進するようなものだった。配布した手元資料にはそのレイアウトのチャートが古典的社会がすでに読んだと思うが「イギリス社会」章にあるような一つのヒエラルキーを作った。(1106)これまで言ってきたことを振り返って考えてみれば明らかに彼らは人々の間に4つの区分を設けている。そこにあるのはCommonwealthにおける機能的な役割の区分であり、地位や身分の階層であった。また性別の差や年齢の違いや親と子の違いもあった。これらの差は通常重複していた。もう少しこの違いを細かく見てみよう。

 

まず最初は身分や地位の違いである。このヒエラルキーは特にこの差を強調していた。この差異については簡単に飛ばしたいのは皆さんはすでにその辺をすでに読んだりしているが、いくつかの主要なポイントを指摘しておきたい。(1203)社会的ヒエラルキーの頂点にあるのは当然ながら王とその直接の家族である。王はイギリスの最高の貴族であるだけでなく、王国の唯一最大の地主でありまた何か特別な存在である。王は「神の指名を受けたもの」という存在だった。当時は戴冠式の時に儀式として聖油で清められた。その国土におけるあらゆる世俗的な権威の源泉であっただけではなく神の特別な慈悲を体現して支配するものであった。王冠の下にはDudleyの言う騎士団がありそれ自体にも内部に区分があった。ここでも配布資料が役立つが、一方で貴族階級であり他方では紳士階級でもあった。(1302)爵位を持つものは貴族階級よりも上位に位した。

 

貴族社会は男の子供に相続できるタイトルを持っていた。Dukes公爵,Earls伯爵,Marquises侯爵,Vicounts子爵,Barons男爵,Lordsである。彼らは法の下に有利な地位にあった。彼らは貴族だけで審議した。国会の中の議席であった貴族院で審議をした。彼らはその生まれと地位に基づいて国会の中で議席を持つ権利を有した。これらの貴族階層と並んで別に聖職者階層があった。主教bisshop,大修道院長abbot of monastery彼らもまた教会の主催者として貴族院で議席を持ていたが重要な差はその地位は相続できるものではなかった。16世紀には彼らはローマ法王に指名されていたが通常は王の推薦や助言に基づいていた。(1406)これが貴族社会の中で高位に立つ爵位階級である。更に同時代で下位の貴族は通常は紳士階級と呼ばれていた。

 

彼らもまた内部的にはknights勲爵士,esquires郷士,単なる紳士に区分されていた。勲爵士は君主に戦時に奉仕するものとして創設され、実際は今でも存在する政府に奉仕する者だった。英国で高位の公務員や軍の将校は退官の時この勲爵士の称号を授与され、今日では公務の概念が拡大し他の社会的役割も含むようになった。Sir Ian McKellenや、Sir Paul McCartney,Sir MicK Jaggerなどもいて、彼らが最初から素晴らしい人間だという証拠になっている。(1509)君主による勲爵士の指名とその複写は続いてきた。16世紀彼らknightsは王国の40の郡の主要な家から選ばれてきたがその肩書は相続できなかった。それぞれ新しい世代になると再び選出された。彼らの下には数少ない郷士の紳士階級と単なる紳士がいた。彼らにはMisterと呼ばれる以外には肩書はなかった。紳士だけがMisterと呼ばれた。彼らは紋章をつける権利を持っていた。まとめてみれば貴族は貴族階級と僧職者そして紳士階級が基本的なイギリスとウエールズの土地所有者だった。(1604)

 

例えばイギリス北部にある北ヨークシャーの田舎では16世紀初めごろの研究によれば貴族階級が土地の27%紳士階級が47%の土地を所有しそのほかの土地は教会に属していた。大地主に払われる地代としての土地だけが所得の源泉ではなく借主への権力もその源泉だった。これが当時の人々に対する荘園の資源であった。いくらかの紳士階級はわずかばかりの小さな農園を持っていたあるものは貴族階級として広大な領土を持っていた。Earl of Shrewsburyは幾度か登場するがイギリス中央部のNottinghamshire郡やDerbyshire郡Shropshire郡に広大な土地を所有し(1704)彼は当時「イギリスの心臓部の4つの郡のプリンスのよう」だと書いている。彼は当時の地域全体の紛れもない最大の地主だった。どの郡であっても土地を所有するものは自然発生的に統治階級を構成しそのうちの何人かはその地位を何代にもわたって引き継いできた。その身分や先祖がとった誇りが何であれ、彼らは究極的にはその所有した土地に基づいた財産にあることをよく知っていた。紳士階級の一人であるSir John Lowtherは息子たちに次のようにアドバイスした。「貴族階級や紳士階級は(紳士階級とその世間的評判の支持者や後援者)富なしでは空虚なものでイギリスの肩書も軽蔑に値するものだが常に我々の貴族階級や紳士階級の肩書や血筋を守ろうとするならこの財産を守らねばならない。それこそが他でもない裕福の家系だからだ。」(1808)