心理学入門(3)  幸福感と遺伝形質、幸と不幸の一時性、期待と落胆の一時性、感情的予想と過剰期待、日常性と慣れ、順応性と慣れ、ノイズと慣れ

 

(訳注)幸福感の謎を探求している。幸福感は人それぞれで同じような境遇でも個人個人でそれぞれ違う。明らかに一定程度は遺伝性である。いつも楽観的な人がいるしいつも悲観的な人がいる。幸不幸はある程度は遺伝性を持っていることは証明されている。一卵性双生児は同じような幸不幸の尺度を持っている。さらに幸福感の一時性の話をしている。確かにそれが達成出来たら最高に幸せだと思うこと、人生の様々なイベントは一年後まで継続しない。きわめて一過性なものである。同じように期待と落胆も一過性のものである。これが「感情的予想」と言われる過剰期待で、それが日常的になればどうなるかその評価が心理学では不適正だった。人間はあるイベントが日常的になるとそこになれが生じ幸福度を感じない。それが進化論的な意味で順応性を持っているという。しかし幸福なことには順応する一方不幸なことノイズには順応しない。だからこれらの精神障害には慣れることなくそれが克服できる改善できると考えたことが誤りだった。この話は旧約聖書の伝道の書「快楽の踏み車」の話につながる。

 

 

 

 

ほとんどの場合この教室の誰でも食事を与えられ住まいがあり安全である。何人かは経済的に豊かであり、何人かは知識が豊富で、愛し合ったカップルであるが、たとえそのグループの中にあってもそれぞれの幸福度は違う。そこが謎なのだ。その謎を説明するためにいくつか幸福に関する驚くべき事実を話さなければならない。そこから3つの話をしよう。まず最初に幸福度とは君たちが考えているほどには変化しない。特に幸福度は今あることにそれほど敏感ではない、君たちの幸福感はその環境で起きていることに考えているほどには敏感ではない。その理由の一つはそこには明らかに強い幸福度に対する遺伝性の基礎があるかある。ちょうど個性と知性の領域の話と同じように、そこにはある程度遺伝的決定要素が、いかに幸せかを決める要素としてすべてではないがある程度はある。(2309)ある人々は遺伝的に決定されたセットポイントに関して話している。いわば生まれつきの幸福レベルを人は持っている。多分一定の幅かもしれない

 

極端な例はある人は遺伝的にかなり不機嫌な傾向があるし、またはかなり楽しむ傾向がある。それが出来ないのが、一卵性双生児はその幸福感がよく似ているが、話したように同じものではない。人生の出来事はどうだろう。人生の出来事はその幸福感を変えることができるだろうか。そこに我々の幸福研究の大発見になるきっかけがあった。ちょっと考えてみよう。何が起きたら君は最悪か。そこからどれだけ君の幸福感が変わるだろうかと考えてみよう。さてちょっと考えてみよう。(2401)何が起きたら最善か、そこからどれだけ君の幸福感が変わるだろ。幸福の研究から分かったことは人の直感は多分間違えだということである。ここにいくつかの事例研究がある。多くの人にとって非常に悪いことが起きたというのは事故で首から下が麻痺した場合である。結局明らかに常識的にはそうなったら人は不幸である。それが人をうつにする。これで人生は終わったと考え、恐ろしく悲しくなるがこれはそう長い期間ではない。一年後、首から下が麻痺して1年後、人々は前と同じような幸福感を取り戻すことから分かるのはそれが永久的なものではなく一時的効果だということ(2504)である。

 

多くの人は宝くじで数百万ドル勝ったら幸せだと信じている。勝ち券を開けて「百万ドルを当てた」と言って、人は神に正直に幸せを祈る。一年後そう幸せではなくなる。事実宝くじに当たることは恐ろしい話で期待の裏返しになる。もし勝ったら何が起きるかというと、多くは家族から仕事から友人から離れてもぎ取られそれがもとで、憂鬱になり悲しみに暮れる。日常的にありふれたことが人を幸せにするのであって幸せになると思うことは長くは続かないように見える。Dan Gilbertとその仲間のある研究によると、彼らは若いテニュア―になろうとしている助手たちに、テニュア―は大学システムの中で良いことでこれを取れば一生大学で仕事を保証してくれるからだが、(2603)「テニュア―を取ったらどれだけ幸せか」と聞いた。「テニュア―を取れなかったらどれだけ幸せか」と聞いた。最後の選挙の前に彼らは「もしブッシュ大統領になったらどれだけ幸せか」と聞いた。「ケリー大統領になったらどれだけ幸せか」と聞いた。結局人々はその効果に過激な過剰期待をした。自分の支持する候補者が勝ったとしても大した問題ではない。自分の支持する候補者が負けたとしてもこれも大した問題ではない。テニュア―を取れるか否かは大きな問題である。

 

6か月後1年後人の幸福感は影響するようには見えない。消費材を購入する、例えばXbox360や液晶テレビを買うのはその箱を開けセットアップするときは人を幸せを感じるが、この幸せも直ちに消える。モラルも多くの人の頭の中で揺り動いている。(2702)それは事実である。我々の仕事のモラルの多くは永久的な深遠な効果を持つだけではなくブレてはならないものである。なぜ我々は彼らの幸せに過剰な期待をしたのか。専門用語としてはこれを「感情的予想」という。これもまたDan Gilbertの研究でその考え方には我々はこの感情的予想に振り回されたと言っている。我々は今あることに基づいて将来にわたってどれだけ幸せかまたは悲しむべきかを予言することに振り回された。何故か。いくつか理由があるが、一つには一定のイベントの日常の不適切性の評価に失敗したことがあげられる。つまり明日行われる選挙の前に、頑固な民主党支持者に「ブッシュが大統領にえらばれたらどう思うか」と尋ねれば、その人は「みじめな思いだ。あと4年間のみじめさは計り知れない」という。しかししばしばブッシュが勝つか負けるかがどれだけ悲しむべきか幸せなことかどうかを評価していないだけでなく、ほとんどの日常生活ではだれが大統領なのかは考えていない

 

私は大きな賞をもらったら、ノーベル賞をもらったら、大いに幸せだろう。盆と正月が一緒に来たようなものだ。しかし一か月後相変わらず不眠症に悩まされ面白くないテレビを見て水道屋は来ないし子供は親を無視するしで、大賞をもらったことなどどうでもよい。人生で起きる幸せにすると思われることの多くは、日常生活にはあまり影響がない。そしてまた(2900)ポイントをセットするロジックがある。これが恐ろしい言葉になった。adapt適合させる。今私はノーベル賞に値しない。かってはそう思った。もしノーベル賞をもらったら私はノーベル賞に値する男になった。幸福だろうがそれもまた慣れの話だ。第二のノーベル賞をもらったら二つもとった。だけどそれも慣れの話だ。慣れただけのこと。これらを強調するつもりはないが、非常に面白い例外がある。例えば我々は過去にノイズには慣れていなかった。多くの研究から分かったのは、周囲の環境がノイズだらけだったら、周りで建設作業中だったら、それに慣れることはできない。人に幸福が降り注いだらそれは戻ってこない。人間のシステムはノイズの継続に慣れることができない。

 

我々は良いことに順応する。宝くじに当たり、賞を獲得し、(3003)成績でAをもらう。我々は順応し、慣れてしまう。そしてまた別の驚くべき例外がある。幸福の驚くべき研究には美容整形外科による胸の強調や胸の減少の影響がある。一つの大きな驚きはそれが人を幸せにするとともにいつまでも幸福感を感じることである。これに対する一つの説明はいかに見えるかが非常に重要だということである。いかに他人が人を見ているかいかに自分自身を見ているか、人は決してその見かけに慣れることはない。見かけが良ければいつでも幸せになれる。これらが例外であるが、それらは例外として、順応の問題hedonic treadmill「快楽の踏み車」と呼ばれている。幸せの快楽である。(3102)人は走り続けるがどんなに速く走っても今あるところにとどまっている。それが慣れである。習慣化とは人は暑い風呂に踏み込むがそれに慣れてしまう。それが冷たい風呂ならそれにも慣れてしまう。難しい環境でも安楽な環境でもそれに慣れてしまう