心理学入門(5)  無意識と直観のモラル、ホロコーストとモラル、大虐殺と服従のモラル、

 

(訳注)モラルの倫理性は極めて直観的な無意識のうちに形成されている。飼い犬を焼いて食べる。トイレを星条旗で拭く。どれをとっても直観的に良くないことと皆が知っているが、それが何故かと問われるとそれが非モラルであるという判断の理由付けに欠けることが多い。本来自主性の倫理では他人に迷惑をかけない行為を非倫理的と言うにはそれなりの理由説明が必要だがそれができていない。同じ問題がホロコーストのモラルで問われた。なぜあのような大虐殺が起きてしまったのか未だに納得いく説明が得られていない。それを実験で明らかにしようとしたエール大の教授は実験そのものがいわば非人道的だとして大学を追われた。基本的には実験者の命令に服従するモラルとそれでも人殺し同様なことに反乱しない学習者のモラルが問われた。結論は来週へ持ち込まれたが、一つは権威の存在、二つは権威者の後戻りできない不安、三つは責任は俺がとるという権威主義の継続があるという。

 

 

家の犬が外に出て車に轢かれた。家に抱いて連れてきてワンちゃんが死んだと言ってから、ところで夕飯はまだか、こいつを焼いて食おう。OKだという人は。ダメだという人は。さてそれからトイレが汚いのを知った。しかしそこには星条旗貼があった。そこでトイレをきれいにするために星条旗で拭いた。OKだという人は。みんなダメだというのか。我々はイーブンな反応を探っている。(3702)エリート大学の学部生ではない生徒の大多数の人「それはまずい」と言っている。最後にこれはどうだろう。これは人が考えている以上に良くないものだ。一人のさびしがり屋の男がスーパーマーケットで冷凍チキンを買って、家に持ち帰りそれとセックスをした。それから料理をして食べた。これは科学雑誌の心理学レビューに載ったものである。OKだという人は。人には一貫性と言うものがある。これをOKと言う人は彼らがまじめに信じている限りあらゆることにOKと言う権利がある。(3803)彼らは自主性の倫理に誓約をささげている。OKではないと考える人はそれはなぜかを自問しなければならない。そこからその理由を吟味しなければならない。

 

人間は賢明であるだからそれが何故かを表現できる。「それは病気だよ」しかしこういった理由はまじめさに欠ける。深く考えないで答えを述べている。これらはまたいかに我々のモラル判断が無意識と言う要素によって支配されているかを見る面白いケーススタディがある。我々のモラルの直観は驚くべきものがある。Milgramの研究ののモチベーションは、これはモラリティの文脈での話の最後になりますが、ホロコーストで、彼が関心を持ったのはなぜこのようなことが起きてしまったのかを研究したかったかである。(3903)ところで注意しておきたいのはMilgramがYaleの教授だったときの映画の件である。彼がYaleを去ったのは彼がtenureの資格が得られなかったからで、Harvardに移籍したがそこでもまたtenure資格が得られなかった。彼はそこから狂気の博士の異名をとった。彼は結局ニューヨーク市の市立大学で33歳で完全な教授職を得て50代初めで亡くなった。幸運な生活ではなかったが極めて偉大な発見をした。その別の発見については来週お話するが、誰かMilgramの「60度の分割」という用語を聞いたことがありますか。(4002)

 

Milgramは強力な想像力の持ち主だった。映画を見て何人の人が笑いましたか。何故と言う面白い質問をちょっと話してみよう。「XXXに対するわずかなショック」これは今見たことを繰り返したものである。学習者は被験者が繰り返し来るショックに抗議しても実験者は続けて順守することを要請した。映画を見なかった人には課題がいくつもあった。彼らは彼らが記憶ゲームを教えているものだということは知らないが実際はショックを受けたのは一定の方法でショックを増加させるように反応する訓練を受けたサクラだった。そこで見たものは大多数の人が他の人物への指示に基づき今までに決して会ったことがない人物に運命的なショックを伝えた。そこにはすぐにこれに関して下手な説明が行われた。一つの説明は(4111)これらは実際に変な連中だというものである。「これらは精神病質者の異常な集団だ」

 

しかしこれは真実ではないことを知っている。これは多くの被験で繰り返し複製されてきた。Milgramの独自の研究の被験者が異常だと信じる理由はない。そしてまた人々が一般的にサディスト的だという説明も誤りである。映画からは誰もショックを与えることに喜びを感じていないことが分かる。彼らは強い不快感と困惑と葛藤をこの膨大なストレスのもとで感じている。彼らはこんな行為を好きでやっているのではない。これに対するフォローアップの研究がある。これも独自の研究である。Yale大を離れてから同じようにある権威が運命的なショックでここを離れた。先生として(4202)彼に次ぐ学習者として下野した。彼らの手を取らねば、彼らを殺したも同然である。実験者が電話で指示したならこれも同罪である。白い実験着を着ていない普通の人間なら「彼にショックを与え続けても構わない」それはしていないのと変わりない。そしてもし反乱が、もし誰かが反乱を起こし「こういうことはしたくない」と言はなければ、多かれ少なかれやっているのも同然である。人は自身のショックのレベルを選択できるなら、こうする人は非常に少ないだろう。

 

スライドにあるのは誰かに殺人同然のレベルをもたらした要素の重要なリストである。(4302)結果としてその要素を見て誰かに何かこのようなことをさせる何が完全な状況なのか、何が不完全なのかを考えざるを得ない。さらにもっと深刻なMilgramの批評はMilgramの実験はなぜ人間を被験者とする委員会があるか。今私が言ったような人々に何かをする極めて深刻なストレスの多い実験は今日では行われなくなった。これに参加して幸福だったという人はいたが、申し訳ないと言った人は2%足らずだった。依然としてこうしたことに深刻なダメッジが残っている。これらの人は誰かが彼らに殺せと言ったら他人を殺すことを彼ら自身が学習した実験室を離れた。心理学者としては我々は誰にもこのようなことをする何の権利も持っていない。人はこれらのことを自分自身で学んだ(4403)。人をこのような人殺し同然の状況に置く権利は持っていない。だから誰かを殺せというのは口実に過ぎない。

 

これは何か深刻な倫理的批評がそこにある。歴史家と社会学者はMilgramが関心を示した問題をもとに戻して議論をしこの従順・服従の程度こそ大虐殺のよきモデルではないかと議論している。多くの中で一つの例を挙げると、Goldhagenはドイツのナチと大虐殺の参加者は実際は従順に命令に従った人々ではなくむしろ熱狂的に自発的に人々はやったと議論している。依然としてMilgramの実験は多くの点で関心をもたれ(4505)多くの点で彼が誰かに恐ろしいことをやらせる完全な状況の図式を提供したからで、その完全な状況はその一定の要素である。そこに含まれるのは権威、このケースではYale大と科学の権威である。「これは必須の実験である」自信たっぷりの実験者と言う権威、結果は全く実験者が狙ったものとは違って、神経質になり、継続することをためらい、困惑した。しかし彼は自信をもって彼が責任を取ると言い続けた。学習者と実験者の間には距離があった。(4545)