心理学入門(3)  インテリジェンスの差異と定義と幅、IQテストの測定と正規分布曲線と偏差値

 

(訳注)個性のパラメーターは最終的には協調性がすべてをカバーするとしている。個性に次いで第二の差異は人間のインテリジェンスのパラメーターである。しかしインテリジェンスとは何かを直観的には理解できても科学的に定義することは難しい。賢明さと愚かさには一定の幅があってその幅の測定の方に心理学は目を向けた。それがいわゆるIQテストである。つまりインテリジェンスには一定の幅があるだけではなくその内容に大きな幅があり、さらに個別的インテリジェンスと総体的一般的インテリジェンスがある。これを心理学の世界ではSテストとGテストと呼んでいる。さらに難しいのはSテストの点数とGテストの点数には一定の相関関係があることが分かっている。心理学の社会では定義するよりその際を測定し点数化する方にシフトした。IQテストと言えば偏差値と言う言葉が唐突に出てくるのはこれがGテストとして機能するにはその正規分布曲線のどこに位置するかを測定することになる。この正規分布曲線をベルカーブと呼ぶのは、この曲線がベルの形をしているからで心理学だけではなく経済学でも社会学でも統計学でもその信頼性と有効性を担保するのにこの平均偏差が使われる。しかしIQテストが独り歩きすると、その社会的有効性が問題になった。人間のステータスをIQが決めるという本末転倒が批判された。

 

これらの一致点は結局「協調性」でもってカバーすることができる。この番組を見たことのない人は、これらすべてが混とんとしているがこれを見ればどの特徴も「協調性」でカバーされることを推測することができる。もっとも協調性のある人はこの番組ではFlandersとMargeであるが、逆に協調性がないのは誰だと思う。Krustyは実際には複雑である。Ned FlandersとMarge Simpsonは非常に協調性が高いという意見の一致を見た。一方でBurnsとNelsonは非常に低かった。Nelsonの小さな子供は行く先々でトラブルを起こしていた。これが協調性の低い人の心理学的サインである。以上が個性で私が指摘したいいかに測定するかに関することのすべてである。あとで個性の差異についてまとめるときにこの話に戻ります。さて話は戻ってもう一つの大きな差異に戻ります。

 

第二の大きな差異はインテリジェンスである。ではインテリジェンスとは何かをどう定義するか。個性のように簡単にはいかない。(2001)ここではいろいろなことに関与してくるからそう簡単にはいかない。ある調査では千人の専門家にインテリジェンスの定義を聞いた。ある答えが何度も何度も表れた。皆が言っていたのはインテリジェンスは抽象的理由付け、問題解決、知識を取得する能力に関与するというものだった。これらが賢明であることの核になる。そのほかにも言われたのは、記憶や、精神的速度、言語、数学、知識、創造性もインテリジェンスの特徴を表している。定義することが難しいかもしれないが君たちはそれが何かを直観的にわかっている。君たちはHomerを知っている。これが限定的なインテリジェンスであることを示している。私の同僚は非常に高いインテリジェンスを持っている。しかし彼は多分本当に賢人と言われる人間ほどは賢明ではない。このスライドの男はRalph Wiggumだが、特に愚かな奴だ。つまりそこには幅がある。(2103)

 

いかに特徴を見出すかが極めて重要である。これがこの調査がしたことだが、しかし直観的にある人は賢明である人は非常に賢明である人は愚かである人は非常に愚かだと言える。科学的視点からはどうしたらよいのかというと、これをもっとしっかりと具体的に特徴化することである。教科書には素晴らしいインテリジェンスを定義し測定しようとした歴史のレビューが載っている。しかしそこに私が焦点を当てたいいくつかの考え方がある。一つの考えはSpearmanによって展開され、そこには二つのインテリジェンスのタイプがある。「G」型と「S」型がある。「S」型は特定のテストの能力である。IQテストの一部として10のテストがあるとする、10の設問がある。それぞれの設問について異なった点数がつけられら。数学のテスト、読書テスト、特別なテストそれぞれ異なった点数がつけられる。(2203)「G」はgeneral インテリジェンスの意味である。この一般的なインテリジェンスは共通のテストにそれぞれもたらすものである。スライドにこの図表が載っている

 

6つのテストがある。それぞれが「S」でありその上に一つの「G」が載っている。「G」は非常に重要な概念である。「G」と言う用語は心理学では日常的会話の中でも多く使われている。「彼をどう思う」「彼はGが高い」。その意味は彼は頭の良いやつだ。なぜ「G」が必要か。ある人のそれぞれの無関係のテストパホーマンスが良ければ「G」は必要ないのではないか。テストが純粋に別々ならそこには一般的インテリジェンスは必要がない。しかし人は何度も何度も見つけるのは人々が複合した知的仕事のパフォーマンスを説明するときで、そこに二つのことが表れる。(2301)特定の仕事をいかに上手くこなせるかだけではなく、そこにまた人が持ち込んできた仕事との一般的な相互関連をつけられるかである。これを運動競技になぞらえて表現してみよう。

 

私がジムでランニングしているとしよう、そこには数多くの運動テストがある。ランニングのテストがある。バスケットのシュートのテストがある。水泳のテストがある。フェンシングもある、それを10科目上げる。さてそれぞれの科目のテストがあってそれぞれの点数がつけられる。しかしそこで発見するのは点数はそれぞれが独立しているものではないことである。一つの運動に長けたものは他のものも上手くできる。ランニングやスイミングが上手い人は、時にクライミングも上手い。同じことがIQについてもいえる。つまり特定の科目をうまくできる上に一般的にいかにうまくできる要素があるように見える。この要素が「G」と言われるものである。(2401)さて現代インテリジェンステストの広範囲な歴史と何が最も関心があるかは今テストそのものにある。現代のテスト、成人と子供に対するWechslerテストの関心はどう点数をつけるかにある

 

その点数は100を平均としている。これは自動的に計算する。平均が100であったとする。まるで私が中間テストで点数をつけるように平均を計算してそれを100として表す。単純平均である。これが正規分布曲線を表し、その意味はそのIQテストでは大多数の68%が、85点から115点の間にある。絶対多数の95%が70点から130点の間にある。(2502)たとえばIQ145と言えば教室にいる人のうちで0.13%に属するという意味である。これがIQテストの測定値になる。これがIQテストだが、さてその信頼性や有効性が問われる。その意味は何だろう。これが結局極端な議論の対象になっている問題である。これが今言ったように繰り返されている。HerrnsteinとMurrayによって書かれた「Bell Curve」という本から多くの議論が生まれた。Bell Curveの中で作者たちはこのIQ問題は日常生活と人々の社会におけるステータスの広範囲に及び、いかに金持ちかいかに成功者かが、彼らのIQテストの結果に従っていることが議論の対象になっている。(2602)

 

この本は君たちの時代の前に多くのクレイムを巻き起こしたが、それによって大きな論争は生まれた。この論争の結果としてある面白い記事が表れた。HerrnsteinとMurrayに対する反応はアメリカ心理学会から起こされた。それはインテリジェンスについて彼らの考えたインテリジェンスについてのレポートを書いた50人の指導的研究者たちの集団が一緒になって起こされた。彼らの考えたインテリジェンスはIQの問題なのか、いかにIQがインテリジェンスに関係するか。何が人々のインテリジェンスの違いを作るのか。何故異なった人間集団が異なったインテリジェンスを持つか。等々。同時に他のIQ研究者のグループが最初のグループとは違って一緒に別のレポートを発表した。もし興味があればこのスライドにそのレポートへのリンクが張ってある。彼らの結論は何だったか。結論は少し異なったものだが、ここにIQテストに関する重要性の専門家による広範囲なコンセンサスがある。その主張はIQは他の測定できる人間の特性よりもっと多くの教育的、職業的、経済的、社会的結果に強い関係がある。ある意味ではその相関関係は学校での成功、軍事訓練での成功に強い関係がある。ある意味では適度なしかし堅固な社会的適性を持つものである。」(2737)