Rise and Fall of Roman Empire(2)   キリスト教改宗への動機と本質

(訳注)コンスタンティヌスのキリスト教への改宗の動機については二つの寓話が残っている。一つは夢の中で天使が兵士の盾にギリシャ文字のRXchirhoを描けと命じた話。もう一つは戦闘を前にして行軍しているときに空に十字架そして太陽が重なって見えたという話。後者はありきたりの話だが、前者はchristの名前の由来につながる無視できない話である。しかし動機としては後者の戦闘の神、勝利の神の話の方が真実に近い。結局異教のいわば戦闘に勝利を与える太陽神はコンスタンティヌスの最も欲していたよりどころではなかったか。キリスト教は本質的に無抵抗主義、平和主義の宗教だと言われる。しかしこれから数世紀してその本質が露になる。戦闘の神皇帝の守護神という本質はその後のローマ帝国に長い影を引いた。コンスタンティヌスの時代に今のバチカンの大聖堂は作られた。それはローマの壁の外である。

 

 

Milvian橋の戦いのちょっと前に、あることが起きた。その事件を説明するとされている二つの物語がある。一つはConstantineの夢とされるものだ。この夢の中で天使が彼に語りかけ、ギリシャ文字のchiとギリシャ文字のrhoとを合わせて兵隊たちの盾に描くように命令した。rhoはギリシャ語ではRchiXとして描かれる。二つの文字を符号化して、少なくともキリストを象徴する最初の文字はchiであり二番目はrhoである。(1109)二番目のバージョンは後になって物語として流布され、皇帝自身が彼の伝記作家であるEusebiusに正しいと証明したものであろう。

 

Eusebiusによれば、Constantineは戦闘を前に軍隊と進軍していた。その時軍隊と一緒に空に十字架を見た。そして太陽がそこに重なり、その背景に十字架が現れ、そこに言葉で「この印のなかであなたは征服する」どちらのバージョンかは言うのは難しいがこれがConstantineが彼に起きたと考えていることである。(1204)第二の話は一部はEusebiusの記述であり、一部は夢の中の天使はこの種の話の標準である。その一方でChi Rhoの符号の話は以前からのキリスト教のサインではない。つまりその事実はキリスト教の背景にはないから、この話は初めて我々が聞く話ではないか、ということはこれは真実の話であることを示している。何が実際に起きたか以上に重要な話はConstantineの誠実さを疑うものは何もない。この話が計算づくの話であることを信じさせ、政治的な皮肉な動きであることを信じさせるる何ものもない。このことはConstantineがずる賢くはないとは言っていない。彼はその者だ。

 

しかしどの皇帝も考えもしなかったキリスト教を想像することは素晴らしいアイデアだった。(1303)キリスト教は文字通りローマ人の価値を破壊する何物でもなかった。ことにそれはConstantineが重要な支援を頼りにし、またMaxentiusに勝つためだけではなく、権力として有り続けるためにもConstantineが指揮しなければならないローマ軍の価値観を破壊するものだった。キリスト教は平和主義者である。この時点では、後に福音書で戦うなかれ、殴り返すな、暴力の価値を求めるなといったキリストの勧告より文字通りそのものだった。皇帝がクリスチャンになること、そしてその従者たちの支持を得ることはどうしても想像すらできないことだった。(1408)だからといってConstantineが福音書を文字通り訳せば武器を捨てよといった修道士になったわけでない。

 

明らかなことはConstantineはキリスト教の神を他の皇帝たちと比べてよりゆるぎない太陽のような、神聖な皇帝の守護神、あるいは戦争の勝利をもたらす異教の神とみなしたのではないか。Constantineは他の皇帝たちと同じように自分を運命の子、運に恵まれたもの、運命によったとしてもその運命を操る神を宥め鎮め喜ばせるものが必要だと考えていた。それが普通でないのは彼はキリスト教の神を戦争の指導者としての神、戦闘で勝利を与える神、皇帝の仲間とみなしていたことである。(1501)一瞥しただけではこれはキリスト教とは誰にも見えない。そう見えないのは事実だが、事実は数世紀後にその激変した本質的事件、激変ではなくても想像しえなかった本質が現れた

 

Constantineは馬鹿ではない。彼はギリシャをよく知り、ラテン語に精通し哲学を勉強した、学識が豊かな人間だった。しかしそれにもかかわらず彼は時代の人間だった。彼は知的な瞑想者ではなく哲学書の虫でもなかった。彼は権力の人、決断の人、戦略家、残酷さと獰猛さも少なくない人だった。彼の改宗の後でわかったことは、実際に、Maxentiusを倒しキリストの神を受け入れ、権力闘争の奪還のため戦闘に出向き、そして勝利した。(1612)しかしその勝利の後も、彼はあらゆる面で権力の象徴という点では全面的に彼の政権はキリストに帰依したものではなかった彼の作ったものは宣伝と自己愛、彼が作ったものは皇帝に付随する異教徒の神、無敵の太陽というイメージを守ることだった。後しばらくして片や無敵の太陽片や十字架という姿を見ることになる

 

そして彼の在位が終わった後に十字架だけが残った。Constantineの最初の実質的なキリスト者としての行為、あるいは(1705)キリスト教会に好意を持っている人は、忍耐の勅令である。この忍耐、寛容の勅令はMilanで313年に発布されConstantineとLicinius の合作とされている。東のAugustus、LiciniusとConstantine ,西のAugustusの二人が立っている。Liciniusは異教徒。彼はConstantine の奇妙な熱狂を共有しなかった。もし彼が寛容なキリスト教を望んだとしたら、これは素晴らしいことだった。この時点でキリスト教は合法化した。(1803)しかし西ではConstantineが合法化した以上に教会に好意的になった。例えば彼はディオクレティアヌスの迫害時代に没収した財産を返却した。彼は教会の寄付に対する税金を免除し、教会の責任者や司教たちが使えるようにし、またいわゆるpost systemという帝国の通信システムを使えるようにし、それによってどこに行くにも早馬を使えるようにし、旅をするのが容易になり、結果的に国の課税所得は大きくなった。

 

Constantineは異教徒を残しローマの中心部にだけ儀式場を残した。その間にも郊外に二つの大聖堂を建設した。(1902)その一つがサンピエトロ大聖堂である。今日立っているサンピエトロ大聖堂はもちろんルネッサンス期のバロック様式のものである。しかし16世紀破壊された古い教会はConstantineのものであった。彼はまたLateran Basilicaラテラノ大聖堂も立てた。この両方ともローマの壁の外側に位置している。彼はまた教会にかかわる争議の仲介をしようとした。しかしながら彼は決して古い宗教を完全に疎外化しようとはしなかった。彼は宗教的行為の多様性を強調した。彼は一つだけの信仰を要求しなかった。337年彼が死ぬまで改宗のペースがそうだったのは帝国の半分以上がキリスト教を受け入れていた。(2002)