現在 医療病院と児童発達支援に通ってる


それまで、保育園や役所が設ける臨床心理士に相談していた

つまり、娘ができないこと、、、

何も持ってできて、どこかボーダーラインかなんてわからないし、ないと思うけど、同じ年の子を見てできないことやわからないこと困ってることが多そうに感じていそうなこと、そして周囲は成長スピードはそれぞれと言うけど、それによって、その当時はイヤイヤ期や赤ちゃん返り的な魔と呼ばれる期間が長くて私が辛いこと、長いならどうすればいいのか、魔の期間、娘が良好な期間を過ごせてないからズルズルしてるのか、それなら周りはどうしたらいいの?、わからない困ってると訴えていた



そして、日が経ち、病院や児発でこの子にあったスピードや環境を探り、整え、促すことをしてる



そして、少しずつ変わってはきた

もちろん人だから変わってきたことはある



でも、だから今生活が楽だではない



それは、徐々に変化するものだからまだ辛いと言った意味ではない



他者の冷たさなのか、結局他人事なのか、私が求めすぎてるのか、、、、




悲しさがあったから




そもそも、子育てが大変だと言っても夫も両親もご飯を作るやオムツ替えなどはするものの、いわゆるソーシャルスキルとかは全くだし、この歳ならできて当たり前とか、周りはできてるんだからやりなさいと、徐々にではなく目標値だけ設定して段階は踏まないとか、勝手に育つものと関心がない


だから、わたしがそんな相談をしようと精神や肉体がつらくなろうと、不必要なことをやってるぐらいにしか思わないのか私は悲しみで溢れた



そして、本もたくさん読んだし、ネットでも情報を仕入れた

環境づくりや段階を踏むためにどうしたらいいのか、どんな対応、どんなものが必要


私一人では教養もないし要領も良くない、やる気はあっても能力が追いつかない

それなのに、毎日子供とは接しなくてはならない

準備できるまで待っててねなんて通用しない


かなりしんどい



相当辛かったし、相当悩んだし、相当投げやりになったり、相当実践したし、相当自我を棚に置いて四六時中他者ばかりに合わせて大変



そんなのが重なれば破裂もする



人には感情あるし

機械だってキャパは決まってる


壊れるよ



誰かに頼らなきゃと思った


いや、ずっと迷ってたのにね



言葉の意味を理解してきた

言葉とか相手を理解、疎通って難しいなと痛感した



たとえば自主性

幼稚園と違って好きなことやっていいですよくらいにしか捉えてなかった

でも、気づいたのは、自主性はできることがあって初めてできること

その出来るとは、練習を積み重ねる 子供だから授業ではなく、自分のやり方で、人を見るとかやってみるとかを重ねての結果だということ

そして、それが自然と出来ることどうしたらいいかわからない子がいる


通ってる保育園は、自主性を大切にをモットーとしてるけど、自主性がでるにはどうしたらいいかまではあまりなんだなと気づいた



加配をお願いした

快く受け入れてくれ、すぐ手配してくれた



でも、自主性とか衝動性の区別がついていない

わからないが、やらないに捉える


具体的や視覚情報が必要と伝えても大まか


そして、なにより、私の話を心配だと思っている

心配は私の心も入ってくる


たしかに人だし親だから、私情ははいる

でも、観察をしっかりしている

浅いし偏りあるかもしれないし頭悪いけど情報網はかなりはってる


言えば園からはウザがられるモンスターペアレントかとか、通うからには我慢しなきゃとか、思い通りの保育園はないとか、思うけど、それにしても、お母さんの見方ですから、何でも相談してくださいとか言われて嬉しかった分、何かにつけて先生に言いました?とか病院通せはこっちだって人の気持ちぐらいわかる

だから、医師との面談の報告書やリハビリの録画を渡してるのに

結局、園の方針、保育士をやってきたプライドで歩み寄りは程度があるなとショックを受けた


役所の家庭支援課もお母さんが笑ってないと子供ってすぐわかりますからねと私の精神科やカウンセリングを進める


たしかにわたしの個性や考え方やスキル、いわゆる生い立ち、経験値、障害あるよ

それは自覚してるし、そこはちゃんと向き合わないといけないところ

でも、そこばかり進めて、子供の話や園との連携は聞かないって、お母さんは悪くないですよって言葉に反してませんか


あえばいつもそのことばかり

かんかつがあるのかね

そこが仕事感極まりないよね

そんな事務的作業なら心配だの、電話だのしてこなくていいですから

そもそも連絡なんて、向こうから来ることはあまりないけどね


わかるよ、わたしにしょうがいがあるな、育った環境、トラウマなのか生きてきた中でうまくいかなかっことあるよ

だから、進められることを悪いとは思わないし、真摯に受け止める


でも、私の気持ちが楽になったらばっかり


私の対応はするよ

でも、そればかり

安心できない園生活、たったあと1ー2年のことだけど、子供の1ー2年の成長、発達途中でわからない、困ったをふやし、できない、やりたくない、でも頼り方もわかりません、やる気出ませんみたいなその後がこのこと私には続いている


お母さんが笑えばなんて綺麗事だよ

いや、大事だよそれは

だからって、わたしがカウンセリングでベラベラ話したらうまく行くなんてもんだいじゃないよ


たしかに、小さなストレスが発散されれば、頭の回転が良くなって、機転が効くとか、子供が思い通りいかなくてもイラッとこないとか確かに効果はあるよ

でも、そんな単発なことだけじゃないんだよ


それも!なんだよ


そして、すすめておわり

たまにどうですかなんて電話かけてきて

こっちが困った時は息抜きして美味しいもの食べて



そんな話してるんじゃない



安心して預けられないのだから、仲介してくれるとか、園だって言ってみれば会社だし、仕事で慈善ではないのはわかるよ

だからって怪我なくして帰ってこれた良し!とは思えないし、そのことでストレスを抱えているし、なんなら、園のストレスを持ち帰ってることもある


もちろん、家のストレスがないわけではない

わたしは全くいい対応ができない

自分の感情を憎んでる


だから、みんなで、児発や病院でこんな子だね、こう言う環境、調整で、本人が苦手なものを克服できたり、苦手ならどうしたらいいか身につけたいねとやってるんだから、園が理解できてないなら間を取り持つとか、園にも以降があるなら転園なのかどうしたらいいか相談乗ってくれるとか、それが、そうだんのりますからってことじゃないの?



結局ひとごと


まだ4歳だからとか


まだ先のことはわからないとか


お母さんが笑わないととか



頼ってね、なんでも言ってね、



なんて結局仕事、他人事



別に焦ってるわけでもないし、目標値を決めてるわけでもましてや高いわけでもない



本人が困ってて、それが心配ではあったけど、観察し続けて心配も変わらなければ、その心配と言動が一致し、そして本人も発信するようになった



人は冷たい

いや、結局他人事

障害がある人の気持ちがわからない

どんな人生で、どんな気持ちなのか


みんな完璧な人生はないよ

楽しいことばかりじゃないよ


そんなことわかってる

だけど、悲しみや苦しみが多い可能性を秘めてると言うこと


想像なんて妄想に過ぎないけど、好きなもの出して食べてくれるかなより、嫌いなもの出した方が食べるかなの確率は低い

そんな今ある状況からの想像はある

周りが単にポジティブ変換してるだけ、たしかに悲観的や決めつけはよくないけど、現実を見てないとか人ごととか

誰だってお財布にお金が少なかったら買うものを抑える

先に描く未来のためにたくさん働いて努力とか我慢はある

今の現実を見ろよ


こっちは現実を見てるんだよ


それに対して、別に悲観的になってないけど、他人事すぎる言葉がけとか、対応に腹が立つから悲観的になってるんだよ



保育園はずっと長いこと連携をとってきたし

毎日行くところ

大半を過ごす場所なだけに残念でしょうがないし、だからこそのネガティブ未来を増やす


娘のことを話してもいるし、伝わらないから観察してほしいと加配をつけても一般的な対応しかしない

そんなんでいいなら、加配をつける必要はない

子供それぞれの成長に合わせますとか、お母さんに安心していただく場ですとかいいながら人の話なんて聞いてない


そして、園への心配や、行くことへの懸念、でも転園は子供にとっての負担、ただ成長が遅いのはしょうがないにしても、その遅さをどのくらいのスピードにするか、環境をととのえるのが大人の役目なのにととのえずしてできなければそのうちという、遅いこの未来なんて考えてない


そんな園への不信感を抱いても、役所の子ども支援は、お母さんの親との関係や生い立ちから、心配になりますよね、育った環境で自分の子供への接し方や周りの人との関係も変わりますからねという

わたしだけの問題ではない

子供支援となのって、子供とお母さんが過ごしやすいようにとかうたい、子育てランキングで上位とかいっても、病院でどんな子か言われて、それで私生活の刺激や情報が多いのに環境を整えない、わたしの話を心配という妄想込みで捉える、だからいつもと違う、例えば靴をいつもはカバンに入れるけど箱に入れるとき、ビニールに入れてとしかいわない、どのビニール?しかもうちがいつも使うのはビニールじゃないし、そんな家庭もある、箱もクラス分ありクラスの絵があるわけではなく文字 具体的でないとわからない、視覚的が伝わりやすい、気が多く集中力も少ないと伝えての対応 

いつもちょっと早めの相槌でどうせ聞き流しだったんでしょ

その園にどうしたら伝わるかねなんて共感もない

立場上わるい園ねとか、転園を言えないのはわかる

でもわたしが変われ、他人は変わらないって、わたしが園に対して望みを減らしたり、人を信用する度合いを増やしたところで、それは親子の明るい未来なのか ただ今がいいだけで問題に向き合ってないだけ

その未来は誰が過ごすの?もし辛くて大変になったらそれは誰が背負うの?

保育園は多くの時間を過ごす場所

刺激と情報が多い

ガチャガチャした頭

幼稚園がいいのかなんて相談したところでママが変わればなんて、本当にわたしだけの問題?それが子育てを扱う立場の人が言うこと?

子供もわたしも人生未来がある


大人の事情、他人

しょうがない



でも悲しかった



人ってやっぱ結局他人

仕事とはわかっていたし、私生活に介入して欲しいなんて、思うけどできないのはわかってる


でも、もっと寄り添ってくれるかも思った


お母さんの感情を子供はわかりますからね


先のことはわからない


どこもかしこも、話聞くだけ

たしかに我が家のことだから私しか決断や行動ができないのはわかる

だけど、その言葉がけは親身とは思えない

唯一、受給者証の件でお世話になる福祉課の人がカウンセリングの良い場所を探して、自ら電話して予約状況を聞いてくれたのは暖かさを感じた

でも、その後はない

そこはわたしの求めすぎだよね


やっぱり大半の問題点は夫と親、身近な人の理解のなさ、多くの時間預ける園が、自主性といい、意思表示する子のことはすぐ答えますよ、待たせない保育ですと入園時に言ってた

そんな園でなくても、良くも悪くも目につく子は相手されやすいけど、わかりにくい子には可哀想


でも、それを伝えているのだから、そして、病院でも児発でも言われ、心配、勝手な憶測ではなく、私の観察があってたと実証されても対応が薄い

まぁ、教科書じゃないところをどうするかだから、知識豊富だからいいところとは限らないということ


周りの親がどんな声かけをしてるかなんてわたしは色々見てた

言ってることはそう変わらない

家ではストレスの度合いが強くてちょっと他の家よりあたりが強いこともなくはないけど、それは認める

でも、他の家の様子なんて見えないからそんなのもわからない

ただ、言ってることや求めることなんて同じじゃん

弟見てて、バイト差し出したら受け取ってくれたり、服脱ぐ時お腹めくったら頭や手を抜こうとする1歳とはちがう


だからの協力はこんなもんか

理解されるのってこんなもんかと残念だった


結局みんな仕事

そんなのはわかってたよ

役所も代理もできないしできる範囲があることもわかってたよ

でも、理解者にもなれないんだなとつくづく思った


特に嫌だったのは、いい日もあれば悪い日もあって、ちょっと上手くいったら良しとする


負の連鎖

次こそはとか、気分転換とか、相手とか自分の気を紛らわすとか出来ないから困ってるのに、こちらの困り具合なんて軽視


ほんと辛かった

その言葉


気をそらそうとしても、ずっとべったりで、マシンガントークで、しかも、なんでが、なんとなくとか、答えた上で重ねてくればわからない、答えに詰まることばかり

人がやろうと仕向けてもどれも向かない

今となればおままごとのやり方がわからない、なんとなく答えればいいけどなんでいいかわからないから、物を持ってどこかに行くとか、こちらがこれくださいとか言われても臨機応変の態度ができないとか、なんとなく、そのうちかけると思いながら鉛筆渡しても適当にぐるぐるしなかったり、楽しくなかったり、今正解がないとできないのだから自分でできてないと思ったりで、どうしたらいいかわからなかったんだろうね

でも、だから、こちらがちょっとトイレ、ちょっと水飲む、10秒黙って、そんなことすら実現できなかった

描くかけても抱っこしても、私がやることをやりたいから、子供部屋ですまないキッチンのもので遊びたいとか、それもちょっと持てば満足なんて簡単なものではなかった

できる限り興味持ったことやらせてあげてなんて医者は言うけど、そんなのやってるわと、おそらく寛容だよと、それでも、大人のもの、隠すにも限界、その中で、コロコロ次を要求され、子供のものは一才、それが常

毎日毎秒、ずーっとおしゃべり

みんなは名前の呼び方を変えるだけで気づいてくれることが今の4歳だってなかなか難しい

どんな言葉がけがいい?教科書もない

どれだけ手探りで、どれだけ感情抑えて、でも出てきて、その中で頭使って

動いてるものに意識がとられるから不注意も多い

指差ししてもみない、目に見えないことは想像がつかないから、ちょっと通らせても、あっち行っても聞けない

なんとなくで流せないからしつこいし、いきづまる

ちょっと待っても待てない

時間は目に見えない

疎通なんてゼロ

全部一方通行

体感もないからすぐ人に寄りかかるし

白米も嫌いで、食感にはこだわりがある


どれだけ大変だったか

それがどんな精神状態だったか

切り替えて次やるしかないよ

毎日じゃないでしょなんて全然わかってない


あと、そんなこともあるよねってやつ

こっちは統計で言って、たまたまそうでしたなんてこと言ってないのに

そんな見方したら、なんでもよしになるじゃん


どんなに辛かった

何度死にたいと思ったか

それ思ってはいけないことも知ってる

だから周りに言えない言わないのもわかってる

それでもどうしようもなくて、でも死ねなくて

だから誰かどうにかしてって

その誰が誰なのか、どこに何をどうしたらいいのかもわからず役所に電話した

本当に死んでしまいそうだ

やってしまう、どうしようって

死んだら、この子たちはどうなるんだろう

何を背負い込んで、どこまでそれを抱え、どれだけ周りが助けてくれるんだろう

その想像が恐ろしかった

だから死ねない

自分のことさえ考えて死んでたら楽だったのかな

でも死ねない

そんな狭間がどれだけ辛いことだったか

それをおそらく周りは、そうは言ってももう笑ってるじゃない、元気に話してるじゃない、ご飯食べてるし顔色いいしで片付けるんだよね

人前だと明るくしてしまう、笑顔で挨拶して車に乗った瞬間に死にたくなる

そんな人の具合なんて伝わりっこない

じゃぁ、泣けば明るくしなければ?なんて、できたらやってるよ

そして集中力の妨げ、おもちゃではなくて生活、とは言え、人がやってくれることには興味を示さないから、服は自分できないけど、必要な時だけ出す文具とかに興味を示す

そんなのを隠しても出され、ものが増え、自力でできるように整えてもクズさらる

悪気がないのはわかるよ

でもだからってこちらの負担、子供の妨げ、子供は環境が悪いのに怒られ、わたしは準備したのにイライラ

そんな生活もしなくてはならない

そんな状況なのに、どこもみんな大変よ、夫なんて自由よなんてわかったふりして、簡単に考えたって後追いがない子もいる、名前の呼び方で察する子もいる、片付けとか着替えなど生活に興味を持てる子、代わりにやってることを自然と覚えてやってみようとする子、イヤイヤ期が激しい子

みんな魔のとか言うけど、それが単純に長いだけで大変じゃないか

簡単に言えばそんな感覚なのに、理解者、寄り添いはしてもらえないんだな

子供にはしろってゆうくせに


助けるからね、頼ってねなんてなんて言われた分世間というものを知った

障害者に対する見え方とか理解も知った

話さなきゃよかった

人なんて嫌い