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仕事=枠に当てはまらなくちゃいけないもの
と思ってるんだ。
家族やママ友は、
お互いのカタチを合わせていくもの、
としてるのに
仕事となると、
絶対的なカタチ(枠)に自分を当てはめるもの
としているから
苦しくなるんだなー。
んー。
でもなー
自分のカタチでいい!
とも今は思えないからなぁー。笑
何がいいかなぁーと思いながら
ちょっと様子みてみよう😌😌😌
2月末から、飲食店でパートを始めた。
まだ一ヶ月経ってないんだけど、
なんか、もう・・・
ストレスやばすぎ(泣)
口唇ヘルペスはでるわ、
マスクのせいで頬がガッサガサで皮むけるわ、
白髪も急激に増えるわ・・・
なんかなんかなんか、
思ってたのと違いすぎるんですけど!!泣
もうちょっと、いい感じに行くと思ってたよー!!笑
そして何より
自分の中ではもう少し成長していたと思っていたけど、
いざ社会の中に入ってみると
全然自己否定しまくってました。笑
秒で自己否定。
秒で正解不正解に持っていかれる・・・
相手の評価気にして下に入り込んでしまう・・・
顔色伺って、気に入られようと無理しちゃう・・・
そしてその場ではいい顔して、
帰ってからめっちゃ不満爆発するという。笑
もう!!私アタマでわかった気になってただけで、
全然体現できてないじゃん!!笑
大反省の毎日です・・・
でももう自分の思考の問題だってわかっているから、
「あの人のせいで!!」
みたいに外側に向くことはあまりないから
(気づいて戻れるから)
そこはよかったかな・・・
これで外側を向いて、
外側をなんとかしようとしてたら
鬱になっちゃうもんね・・・笑
マジでマジで私にとって修行の日々です。笑
専業主婦で家にいたときは、
ただ何も起きていなかっただけだったんだな
と言うことが
身にしみて理解できました。笑
やっぱり家族と職場の人たちとでは
伝わり方も伝えられる時間も当たり前に違うもんな。
私も当たり前に諦めて心を閉ざしそうになる。
もういいや、って逃げそうになる。
どうせこんな人だし。って切り捨てたくなる。
でもその度に、
それが私の望む在り方?
と自分に問う。
違うよな。私は諦めて、心を閉ざして、
何事もなくただ生きていたいわけじゃないよな。
何が起きても、何を経験しても、何を感じても
大丈夫な私で在りたいんだよな。
そうして自分の喜びを素直に選んで
楽しく生きていきたいんだ。
それには他人からの評価も、承認も、好意も
必要ないのだ。
私だけでできることなのだ。
私にしかできないことなのだ。
私の人生を他人のせいにしている場合じゃないのだ。
だから、この嫌だと思う経験を
ぜんぶまるっと受け入れて
全部自分の学びの糧にしていこう。
大丈夫な私で在る練習を今は淡々としていこう。
淡々とは無理か。笑
吐きそうになりながらやります・・・
私はずっと怖くて恐れてた
娘が傷つくこと
自己否定をして苦しむ人生を送ってしまうこと
自分の娘がそんな生き方をしてしまうことが
とっても怖かった。
だから私が娘に怒ってしまうと、
私が私を責めていた。
娘が不安げな顔をするたびに
どうしよう、大丈夫かなって心配してた。
怒らないで優しくしたい。
自己肯定感高い子に育ってほしい。
大切だから、大切にしたい。
って思ってた。
だけど違った。
それが本当の願いなわけじゃなかった。
私の望みは
娘に幸せで在ってほしい
何が起きても大丈夫な自分
で在ってほしい
だったのだ。
不幸なことが起こりませんように。
が願いなんじゃない。
大切にするって、
傷つけないことじゃない。
完璧に愛して守ることじゃない。
私が怒ってしまっても、
他人に否定されることがあっても、
「傷ついても大丈夫な自分」
で在ってほしい。
それが私の願いだった。
自己否定を恐れて避けようとしていた
傷つくことや苦しいことを避けようとしていた
避けることにエネルギー注いでいた。
注ぐ方向間違えてたなぁ。
子供のパワーを奪ってしまっていた。
どうか
何があっても大丈夫な子でありますように。
何があっても大丈夫な私でありますように。
その内側のあたたかさに、安心に、
気付けますように。
外側でどんなことが起こっても
大丈夫な自分で在れますように。
そして
自分自身で幸せを選んでいけますように。
”わたし”って、サオリであり、あなたである。
アタマで考えたら、”嫌い”な人。
言動も態度も何一つ理解不能。
会いたくもないし話したくもない。
関わりたくない。
だけど感覚で捉えてそれを言葉にするなら
「どうかより良く在ってほしい。」
「自分の存在を大切にしてほしい。」
こんなかんじになる。
それってつまり
「幸せで在ってほしい」
ということだった。
その人にされた酷いこと
傷ついた私の気持ち
確かに在るんだ。
でも日々自分と向き合い、
自分を肯定して生きられるようになると
安心して今に存在できるようになると
傷ついても大丈夫な自分が育つと
傷ついた自分の苦しみより、
そんな在り方をする相手を見ることのほうが苦しくなってくる。
本当に、そんな言い方したい?
本当に、それをしてほしい?
そうしないと あなたは幸せでいられない?
そうしないと あなたは存在してはいけない?
そういう思いが湧くことが何度もあって
なんでだろうって最近ずっと思ってた。
なんでこんなにその姿を見ることが悲しいんだろう。
何がこんなに苦しくさせるのだろう。
そしてふと腑に落ちた。
あの人が”わたし”だからだ。
わたしはサオリであり、そしてわたしがあの人だからだ。
一つの”わたし”から、皆が存在しているからだ。
そんなことよく聞いていたしわかっていると思ってた。
だけど全然わかってなかった。
サオリのたましいが在って
Aさんのたましいが在って
そしてそれぞれが人生を楽しんでいるって感覚だった。
だから私は私の人生をより良くしようって思ってた。
だけど今の感覚的には
”わたし”に存在の数だけ目があるような感覚。
”わたし”の目の一つがサオリにフォーカスしていて
”わたし”の目の一つがAさんにフォーカスしているような。
そしてそれぞれの人生ゲームをプレイして楽しんでいるような感じ。
そしてみんな”わたし”に愛されていて、肯定されているんだ。
そして繋がっている。
だからこんなに無条件に優しくしたいとか
幸せであってほしいという思いが湧くんだ。
その自己否定の在り方を見ると、
それを他人にぶつけて自分を保っている姿をみると、
こんなに苦しい気持ちが湧くんだ。
助けたいって思うんだ。
だから、戦うのが苦しいのだ。
分離なんてしていないから。
私だって、あなたを応援しているから。
あ~あ。って思った。
今まで私も何度も何度も比べて
勝って負けて
いっぱい傷つけて。
ほんと なにやってんだよ、って感じ。笑
あなたも私もおんなじ”わたし”だなんて
安心と慈愛しかないじゃないか。