朝5時半に目覚ましで起床。制服に着替えて毎朝の仕事だった雑巾での拭き掃除をしていた時だった。

 

大きな揺れに襲われた。

 

拭いていたタンスにつかまったけどタンスも一緒に揺れた。

 

30年前のわたしは15歳。中学3年生。

ちょうど今の下の娘と同い年で、

同じように高校受験を控えていた。

 

地震の被害状況がよくわからなくて、とりあえずいつものように登校しようと7時前に家を出た。

 

駅に向かう幹線道路は亀裂の入っている場所があったり信号機が壊れていたりした。生まれて初めて見る光景で一瞬怖いと思ったけれど、学校に行かなければという思いで気をつけながら駅に向かった。

 

駅になんとか辿り着いたけれど電車は止まっているようで、ホームに止まったままの電車の中でしばらく待ってみた。

隣のおばあさんと「これ、もう動きませんね。帰りましょうか」と帰宅した。

 

受験前で、学校に行けないことに気持ちが焦ったけれど、学校は少しの間休校になった。

大阪市内の私立中学校だったので、同級生には神戸あたりから通っている子たちもいた。

 

 

震災のショックとその後しばらく続く余震の中での受験勉強は、15歳の心には結構こたえた。

勉強していても動悸がして指先が震えることもあった。

それでも勉強していた。

落ちるのが怖かったから。

被災した友人は心配だし余震はあるし、テレビで流れる映像は衝撃的なものばかりだったし、心はぐちゃぐちゃだった。

受験ごとなくなってくれればいいのに、と願っていた。普通にあったけど。

 


先日訪れた永平寺も能登地震の被害を受けていた

 

 

月日がたち、「頭いいんですね」と言われると「そうなんです」と返せるが内心は「だって死ぬほどやったもんね」という言葉が頭をかすめる。別に言わないけど。

そして「別に頭がいいんじゃなくて、ただ死ぬほど勉強をしただけです」とも思う。

 

眠気との戦いには何度も負けたし、空が白んできてから30分だけ寝ることもあった。冬の電車の中は座ると寝るから立って参考書を読んでいたりもした。

楽しかったか?と問われると楽しくはなかったと答えざるをえないけれど、

あの死ぬほど勉強をしていた時間は、

今のわたしの支えだったりもする。

 

何か起こっても、なんとかやれるよ。

だって、とことんやれたやん。


 

人生の中で

めちゃくちゃ大変な時間を乗り越えたことや死ぬほど何かに打ち込んだ経験は、

その後の人生で自分への信頼に置き換わる。

 

 

なんとかなるし、

なんとかしてやるよ。

わたしの人生だし。




明日で、阪神淡路大震災から30年です。





もちろん自分「ひとり」だけの力で生きてきたつもりは毛頭ない。親や周りの人含め、たくさんの支えがあってこそ。直接関わっていない人にも間接的に山ほどお世話になっているのはわかっている。


だけど

その時与えられた状況と環境で、なんとかしてやるよ。という気持ちはいつも持っている。