まずはじめに、もしもパウロさんが「自分は神の霊感を受けてこの手紙を記している」という自覚が有れば書かなかったであろう表現が載せられたコリント人への手紙の記述をご覧ください。
10 結婚している人たちにわたしは指示を与えます。といっても,わたしではなく,主が[与えるの]ですが,妻は夫から離れるべきではありません。11 しかし,もしも離れるようなことがあるなら,結婚しないでいるか,さもなければ夫と和解しなさい。夫も妻を去るべきではありません。12 しかし,他の人たちにわたしは言います。そうです,主ではなく,わたしが[言い]ます。ある兄弟に信者でない妻がいて,彼女が[夫]と共に住むことを快く思っているなら,その人は[妻]を去ってはなりません。13 また,信者でない夫のいる女は,彼が[妻]と共に住むことを快く思っているなら,彼女は夫を去ってはなりません。14 信者でない夫は妻との関係で神聖なものとされ,信者でない妻は兄弟との関係で神聖なものとされているからです。そうでなければ,あなた方の子供は実際には清くないことになります。でも今,彼らは聖なる者なのです。
コリント第一7:10-12
この中には、結婚している人達に与えられた主イエスキリストからの指示というものと、イエスが教えなかったケース、結婚関係内での問題のケースをパウロが自分の判断で説明している場面となっています。
神が霊感を与えてパウロさんに手紙を書かせたのなら、こんな表現は書かせなかったであろう表現が有りましたよね?
(↑もしこちらのタイプの書き方をしたのなら、つまり神の霊感を受けて書いた書物なら絶対に書かないひと言がありますよ)
「これが主(イエスキリスト)からの命令です」とも「神の御告げはこうです」とも言えずに「主ではなくわたしが言います」と記していることは、手紙に記されたパウロさんの言葉全てが神の言葉とは言えない証拠だと個人的には思っています。
つまり、基本的に言ってパウロの言葉はパウロの言葉でしかないと思います。当たり前ですが。
こうした手紙がどんなものかをイメージするなら、巡回監督から会衆に送られてきた手紙みたいなものかなと思います。
(しかも、ちょっと口うるさい独善的な巡回監督みたいな人からってイメージ)
ですから、「聖書」に書かれているからって絶対視したり、その言葉を一字一句守らないといけないなんて考える必要はないのでは・・・と思います。
まぁ、何が「聖書」に含まれるかについては一世紀当時のクリスチャンと現代のクリスチャンとでも認識の違いが有るでしょうが。
そのことですが
↓
https://ameblo.jp/246-246-246-land/entry-12181290295.html
も よろしければご覧ください。