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聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。
テモテ第二3章16節



この「聖書全体は神の霊感を受けたもの」って言葉を使い、私達が用いている66冊の書からなる聖書こそが、神の霊感によるもので、現在これに含まれてはいないいわゆる聖書の外典や偽典というのは信ぴょう性の無いものとして説明されますよね?


でもね、これって実は矛盾した話なんですよね・・・




旧約外典一覧⬇︎

第一エズラ書 第一マカベア書 第二マカベア書 トビト書 ユディト書 ソロモンの知恵 ベン・シラの知恵 エレミヤの手紙 マナセの祈り ダニエル書への付加 スザンナ アザリヤの祈りと燃える炉の中の三人の祈り バビロンのベルとバビロンの龍 エステル記への付加




こうした外典について、例えば・・・


霊感の本  301ページには・・・

「外典の書は作り話や迷信に満ちており、間違いだらけです。それらはイエスによっても、あるいはクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者たちによっても一度も言及されたことも、引用されたこともありません。」
(言及も引用も本当になかったのかについては追記をご覧ください)

霊感の本  304ページにも・・・

 「外典の書は大変劣っており、多くの場合取り留めのない子供じみたものです。それらの書は多くの場合不正確です。」


・・・と、こんな風にボロカスに述べてしまっています。


しかし、ここまで言っていいんでしょうか?


初期クリスチャン達が用いていたセプトゥアギンタ訳聖書(七十人訳聖書)って、今では外典とされている書も含まれていました。



セプトゥアギンタ訳聖書についてのものみの塔の説明⬇︎

(研究用ものみの塔2015年12月号)
アレクサンドロス大王が古代世界の多くの地域を征服すると,コイネーつまり共通ギリシャ語が国際語になります。多くのユダヤ人がコイネーを話すようになったため,ヘブライ語聖書がギリシャ語に翻訳されました。この翻訳は72人の翻訳者が行なったと考えられており,セプトゥアギンタと呼ばれています。聖書の最初の翻訳であり,非常に大きな価値があります。 大勢の翻訳者が参加したため,翻訳スタイルは様々で,逐語的な訳もあれば,かなり自由な訳もありました。それでも,ギリシャ語を話すユダヤ人も後代のクリスチャンも,セプトゥアギンタ訳を神の言葉として受け入れました。



こうした、セプトゥアギンタ訳に含まれていた書を初期クリスチャン達も、後代のクリスチャン達も神の言葉として受け入れていたんですよね・・・


パウロも「聖書全体は神の霊感を受けたもの」って述べた時、セプトゥアギンタ訳に含まれていた全ての書を思い浮かべながら「神の言葉」と述べたはずです。
(もちろん、今日の新約の部分、自分が書いた手紙などは聖書とはみなしていなかったはずです。そのことについてはパウロの言葉は神の言葉ですか?もご覧ください)





それなのに、「聖書」には間違いが無いと思っているはずなのに・・・今では外典とされてるものをボロカスに言ってしまっていいんでしょうか?



ではセプトゥアギンタ訳に含められていた書の中のある書が外典として省かれてしまった背景ってどんなものでしょか?


そうなったのは、西暦90年頃にユダヤ教パリサイ派のラビ達によって行われたヤムニア会議でのことです。


ヘブライ語に起源を持っていない書は聖典なんかじゃない!というパリサイ派の持っていた選民思想やユダヤ民族優越主義の影響を強く受けた決定だったようです。


ユダヤ教のラビ達はクリスチャンに強い敵対心を持っていたんですが、神が用いたのはそうしたラビ達って結論になるんでしょうかね?


なんか変ですね・・・


パウロが述べたように、今では外典と呼ばれ蔑まれている書も含めて「聖書全体」とみなすべきなんでしょうか?・・・


それとも、初期クリスチャンの敵達の決定を神の導きによる決定とみなすべきなんでしょうか?・・・


聖書はどの書?どの書が良い書?



ちょっと考えてみるのも面白いのではないでしょうか。



(追記)

ネストレ・アーラント 「ギリシア語新約聖書」の補遺には外典・偽典の引用と思われるもののリストがある。らしいです。


筆者たちが「引用しました」とは書いてないので絶対に引用だとは言えないかもしれませんが、

霊感の本301ページに「一度も言及されたことも、引用されたこともありません」と言い切った仕方で書いていたのは自分達の主張を正当化するための嘘としか言いようがないのではないでしょうか。









もし、ものみの塔協会のこうした主張通りなんだとすれば、

パウロは聖書筆者としては全くふさわしくない人物ってことになりませんか?


セプトゥアギンタ訳聖書を思い浮かべながら


聖書全体は神の霊感を受けたもの
って書いたのですから。


もしものみの塔協会の主張どおりならば、

聖書の◯◯記、◯◯書、◯◯書、◯◯記・・・・・・
は神の霊感を受けたものです。
それ以外の偽物には注意しなさい

って感じに紹介するはずですから。