エホバの証人とキリスト教の他の諸宗派の方々では「救い」という言葉の使い方に関してズレがある事を覚えておかないといけないと思います。
エホバの証人の場合、マタイ10章22節などの「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。」という言葉を思い浮かべて「救い」という言葉を述べます。
つまり、死に至るまで忠実とかハルマゲドンが来る時まで忠実であれば「救われる」という使いかたをします。
一方、他のキリスト教諸宗派の方々は「私は救われています」というような言葉の用い方をする場合が有りますよね?
今の救いについて述べることがあります。
ぼくはどちらが述べる「救い」の感覚も正しいし必要だと思います。
ただ、JWには「信仰を抱いた今の段階の救い」という感覚が欠けてしまっているのは弱点になっているとも思います。
必死で頑張らないと救いには至れないっていう感覚を持っているのではないでしょうか?
例えば・・・
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。
マタイ7章13、14節
自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか。
ヘブライ12章1節
・・・などと述べられている聖句は頻繁に用いられますので、そうした感覚は非常に強くなってると思います。
しかし、下手をすると律法主義みたいなものに陥って必死で自分の良い行いによって救いを勝ち取ろうとしてしまう可能性が高いのではないでしょうか?
「もっと奉仕に熱心でなければ救われない」などなどです。
調子が悪くても悲愴感を漂わせながら必死に宣教に携わろうとする方々が多いのもこういった事が原因ではないでしょうか?
そうすると、愛の神?何それ?って実際にはなってしまうと思います。
もっと身体をいたわってあげて!と言いたいです。
また、「行い」が少なくみえる信者に対して「ふさわしくない」などと言って相互に監視しあったり裁きあってしまう原因にもなっていると思います。
それで、JWは全体として、今の「救い」という感覚もちゃんと身につけておいたほうが健全だと思います。
では、今の「救い」って何なんでしょうか?
ワタクシはこの「救い」というのは、キリストに信仰を働かせる事による「罪の許し」の事だと思っています。
そして、聖書中にでてくる守るべき「外衣」とか「証印」というのは神から義とみなしていただける事をあらわしていると思います。
啓示3:4,5、啓示16:15、ローマ4:11、エフェソス4:30、啓示7:4
罪を贖うキリストの力に信仰を働かせ、今、自分は救われている、許されているという感覚を持つことが、進んで自分の生き方を変化させるようにとの後押しになるものだと思います。
この点、アメイジング・グレイスという曲を作った元奴隷商人だったイギリスの牧師ジョン・ニュートンの話なんかを見ても、
自分は許された、救われた、だからこそ喜んで生き方を変えたいって思えるようなったっていう後押しするチカラって必要だと思います。
ほとんどの日本人にはこのあたりはピンと来ないかも知れませんが、自分の過去の行動のことで良心の呵責を感じていたり、罪悪感をもっている人が生き方を180度変化させるには必要になるかなと思います。
過去にとらわれ、「どうせ自分なんか変われない」と思ってウジウジしているよりはよっぽどいいです。
まず心からそれまでの悪い行いを反省する事、そして罪を許すキリストのチカラに信仰を働かせ、許され救われたと感じて喜んで自分の生き方を変えるというのと、
必死に行いによって勝ち取らなければならない救いを目指すというのでは、根本的に感謝や喜びのレベルが違いますよね?
(この点はローマ8:15の奴隷身分の霊と養子縁組の霊の話に対応していると思います。)
だから今、救われているって感覚も大切だとおもいます。
しかし、JWが今の「救い」についてあまり口にしたり考えないのは何故なんでしょう?
答えは・・・
つまり・・・
教えられていないから!・・・だと思います。
今の「救い」を強調し、今「救われています」と言っちゃうと「業」が少なくなってしまうからだと思います。
宣教活動・・・つまり組織拡大のための業などが。
これは非常に残念な教え方だと思います。
もちろん、信仰による救いを強調し過ぎて「これだから信仰のない者は・・・」といった別の選民思想みたいなものが生まれてしまったり、信仰が有るから何してもok、悪い事しても許されるんだろって安易に考えてしまう可能性があるので、それも問題でしょうが・・・
ただ、JWの排斥制度みたいに何年も時間を掛けて本当に悔い改めているかって長老が見て、長老の判断によって復帰が許されるっていうのもちょっと聖書的ではないと思います。
大切なのは人から許されることではなくて、神が義とみなしてくださるかどうか、本人がそう感じられるかどうかですから・・・
まあ、JWが今の救いについてあまり教えられていない、そして組織は教えたく無いんじゃないかって話はこんな聖句にも表れていると思います。
新世界訳では・・・
2 ところで,ここにザアカイという名の人がいた。彼は収税人の長であり,富んだ人であった。3 さて彼は,このイエスがどんな人かを見ようとしていたが,群衆のためにそれができなかった。背が低かったのである。4 それで,先に前方へ走って行き,[イエス]を見るためにいちじく桑の木によじ登った。ちょうどそちらのほうに進んで行かれるところだったからである。5 さて,その場所に来た時,イエスは彼を見上げて,こう言われた。「ザアカイよ,急いで下りて来なさい。わたしは今日,必ずあなたの家にとどまるからです」。6 そこで彼は急いで下り,歓びながら[イエス]を客として迎えた。7 しかし,[それを]見て,人々はみな不平をならしはじめ,「罪人である人のところに泊まりに行ったのか」と言った。8 しかし,ザアカイは立ち上がって主に言った,「ご覧ください,主よ,わたしは持ち物の半分を貧しい人々に与えていますし,何でも言いがかりをつけて人からゆすり取ったものは,四倍にして元に返しています」。9 するとイエスは彼に言われた,「この日に救いはこの家に来ました。この人もまたアブラハムの子だからです。10 人の子は,失われたものを尋ね求め,それを救うために来たのです」。
ルカ19章2~10節
この部分、他の翻訳とは違っている部分があります。
例えば新共同訳では・・・
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
ルカ19章8節
他の翻訳でもこぞって「~しています」ではなくて「~します」になっています。
つまり、新世界訳で書かれてるいるように、悔い改めて良い行いにをしたからイエスは「救われています」と言ったのか・・・
それとも、他の翻訳がこぞって訳しているように、以前の行いを悔い改めて、全く違った生き方をしようと決意表明をした段階でザアカイさんは「あなたは救われています」と言って貰えたかの違いです。
翻訳の正確さなどについては詳しい事は分かりませんが、新世界訳だけが正しい訳し方をしているとは思えません。
むしろ・・・不都合な部分はいじっちゃったのかなって印象が有ります。
そう感じる理由の一つに、
自分の持ち物の半分も貧しい人に与えるようになってたり、
騙し取ったものは反省して四倍にもしてすでに返すようにしてるんだったら、
そもそも「罪人」との評判なんて払拭されてるはずではありませんかね?
たぶんでしかありませんが。
まあ、聖書を勉強してきても、こんな部分を初めとして「今の救い」について意識出来なかった事が息苦しさの一つの原因となっていたのかもしれませんね。
追記
にはこんな説明が。
自分
約束しました?
???
今までの説明とも違うし、新世界訳聖書の聖句の言葉とも意味を変えてますよね?
8 しかし,ザアカイは立ち上がって主に言った,「ご覧ください,主よ,わたしは持ち物の半分を貧しい人々に与えていますし,何でも言いがかりをつけて人からゆすり取ったものは,四倍にして元に返しています」。
こんな風に、今まではもうすでにしている設定でしたから。
・・・ツッコミを入れられて変えたかな(笑)
どうぞ、エホバの証人の皆さんは “救い” で自分が組織に奴隷化されていないかよーく考えていただければと思います。
(さらに追記)
新世界訳スタディー版(新版)では
ルカ19:8は
しかし,ザアカイは立ち上がって主イエスに言った。「主よ,持ち物の半分を貧しい人々に与えますし,脅し取ったものは何でも4倍にして返します」。