あれから家族と沢山考えた。

やっぱり考えても考えても

このまま治療をすることは

半年持つかもしれない命を

ただただ早めてしまう気がして。

主治医とも話した。

肺がんステージ4。

既往歴に血小板減少生紫斑病を

もってる人で4クールをこなした人は

いますか?

と。聞いてみた。

主治医は一言、見たことはありません。と。

お互い治療をするにはハイリスクなこと

下手すりゃ1クール目から

万が一が起こるかも?しれないこと。

いろんなことを想定して考えました。

そして、出した答えは。

『終活をする』


きっとまだまだやりたいこと

沢山あるでしょう。

治療をして疎遠になってる人に

会うこともなく去るよりは

会いたい人に会って

行きたいところへ行って

好きなものを食べる。

人生の終わりは

自分で決める。

時間はそんなに沢山あるわけじゃ

ないんだけど…

できる限り悔いのない

残りの人生を倒れるその日まで

しっかり生きること。

それが答えとなりました。

主治医からは

次入院になった場合

二度と家には帰れないと思って下さい。

と言われ病院を出た。

覚悟決めるしかないね。

一日でも長く生きるために。


本当は、普通の毎日が

1番しあわせだということ。

何気ない1日1日が

実は難しいということ。

再び思い知る毎日になりそうです。


10月のレントゲンより


12月のレントゲンでは


絶賛悪化中でした。

左はもう半分白い。

右はまだ比較的綺麗ですけど…

だんだんだんだん

間質性肺炎も広がっていくでしょう。

止められない。

進行を止める方法があるなら

知りたいぐらいだけど。

どーやったって

刻一刻と進行して行く。


娘の14歳の誕生日。



そんな日に告知を受けた。



私は、肺がんもステージ4もある意味確信していて



転移も分かっていたから、告知を受けたのは?



父と母だけ。



ツーの告知を受けたのも私の誕生日で…



今回はらいむの誕生日。



またしても、あの頃が蘇る。



でも、3ヶ月前からディズニーランドへ



連れて行くと約束していたから



告知は行きたかったけど、母親であることを



優先しました。



まずは、娘の誕生日はちゃんと祝おうって。



予想はもうほぼついているから、私は不在のまま



ムンテラが始まった。



主治医からは、このまま治療をしなければ



余命半年。



オペは適用外の為、抗がん剤治療をススメられて。



それも、なんとなく予想はついていた。



でも、私にも構えてなかったことがありました。



父は、元々既往歴の中に



血小板減少性紫斑病を持っていて



それ以外に高血圧、糖尿っけもあり



さらに…



B型肝炎も持っていたことが分かった。



今まで、B型肝炎が出てこなかったのには



恐らく遺伝で、父は生まれた時から



B型肝炎をもっていたのではないか?ということ。



さすがの私も、B型肝炎まで持ってるなんて?



予想もしていなくて…



肺がん、ステージ4



既に骨転移も認められ、骨盤に転移していると。



そして、前立腺ガン。



前立腺ガンは転移ではなく、単体のものだろうと。



え??嘘でしょ⁇



転移じゃなくて単体??



悪い事が重なる重なる。



ただでさえ、血小板減少性紫斑病でも厄介なのに



B型肝炎もあって?



前立腺ガンですって??



果たして抗がん剤治療なんてして大丈夫??



ってすごく思った。



そして、驚くことに…



父が使う抗がん剤がツーと一緒で。



1番相性が悪かったシスプラ。



ツーの耳がある一定の音聞こえなくなったのも



視力低下したのもぜーんぶコレ。



ツーは、お箸も持てなくなり、当時は



私の介助がなければ、自分でご飯も食べれないぐらい



手足の痺れがあってダメだった。



腫瘍以外、何もない24歳の体力がある人でも



白血球は200まで下がり、血小板も減少し



貧血も増し、腎機能、肝機能も低下。



そんなにあらゆる部位にダメージをくらっても



57万なんて大金注ぎ込んで保険適用外の薬を



使っても、結果はほぼきいていないだった。



シスプラは、あまりにもダメージが強くて



うちでさえ中断した薬の一つなのに



こんなに既往歴があって



血小板なんて嫌でも減少するのに



それでこの抗がん剤ってさ。



正直…危ないよね。



余命半年どころか?



下手すりゃその前に急変なんてありえる話。



私にはとてもいい状態とは言えないと思った。。。



父と母は、ハッキリ言って何も分かってはいない。



私が大変な思いをした時



母は私にこう言った。



『そんなガンになるような人と結婚したあんたが悪い』



『母親のくせに子供の世話もろくにしないで母親失格』



と。



ツーのガンは肺がんのように数いるわけではなくて



100万人に一人のガンで治療薬も手探り。



父は3日の投与と言われて帰ってきたけど



うちは1週間丸っと投与で、お金も父の倍。



たかだか検査一つ15000円で目ん玉飛び出してる



父と母だけど、私は一つの薬に対して57000円。



更に高額医療8万、差額ベッド代、食事代



1ヶ月57000円の薬が2回投与されれば高額医療の



8万の他に10万超えの請求がきて絶句。



散々治療して、義足代に150万の請求。



24歳になったばかりの私につきつけられた現実は



今の父と母よりも遥かにキツく…



生物、生花、子供、犬、全てが接触ダメで



だから私は、子供を置いて無菌室に入りながら



ツーの看病を一人でしていたのに



そんな言葉を投げかけられた私は



誰にも頼る場所がなかったんだよ。



妹が言う。



お父さんとお母さんだって、ツーちゃんが



抗がん剤治療してるの大変だったの見てるでしょ?



って。



でも、この人達は、何も知らない。



私がどんな思いで、どんな現実を背負って



どんな環境で看護していたか。



介護していたか、生計を保っていたか、



どうやってお金も工面していたか。



何一つ。何一つ知らない。



見ていないし、分かろうともしなかった。



今、言い返してやりたいぐらい



本当は憎らしい。



お父さんがガンになって余命半年といわれた



気分はどうですか?



あの時、あなたは、私に毎日毎日暴言しか吐かず



地獄のようにキツい私達を見てこなくて



今、その立場にたった時、そのままそっくり



返してあげるよ。



『ガンになるお父さんと結婚したお母さんが



悪かったね!!!』って。



どれほど憎らしい言葉か?



思い知ったらいいんじゃないかって。



でも…



言えなかった。



私は言えなかったよ。



自分が死ぬほど辛かった言葉



自分の口から出そうになるぐらい憎らしい記憶だけど



言えなかった。



思ったけど、言えなかったよ。



辛いの私が1番よく知ってる。



不安なの私が1番よく知ってる。



誰も助けてくれなくて



何度も何度も星空に



キラキラ輝く星空に向かって



どーかどーか助けて下さい。



神さまは意地悪ですねって



泣き叫んでいた私が



そんなこと、言える訳もなかったよ。



でも、それとは反対に何も感じない自分もいた。



一昔前に経験している分



医療従事者だった分



現実をみすぎていて



悲しいも、辛いも、何も感じていない自分がいた。



薄情な娘…なのかな?



今よりこの何十倍も辛かったから



予想外な部分はあっても



冷静に受け入れてしまう自分もいて…



余命半年って凄く短いのよ。



治療ってすごくキツいのよ。



だから、お父さんはどうしたい?



外科は、今後の人生、自分でちゃんと向き合って



考えな。



治療するもしないも、お父さんが決めな。



治療をして、100%延命できる可能性は



ハッキリ言って分からない。



症状も、ケモの副作用も



人それぞれ。



そして、どんなにセカンドオピニオンをしても



2人の医師が余命一か月と言っても



2か月経っても生きてる人もいれば



余命半年を延命する為に治療をしたのに



半年も持たずして、3ヶ月で旅立つ人もいて。



全て、人それぞれ。



だから、一概にも治療が正しい訳ではないし



残りの人生、どう生きるか。



どう生きていきたいか。



本当に見るべきものはそこだよ。



私もツーも毎日全力投球でキツくたってやるのは



明日いつ死んでも後悔しないように生きる。



それがモットーだから。



皆んなを見送り、私達だけ生き残っているだけに



生きれなかった人達の分も精一杯



本気で生き抜く為に、そう生きようって



これをやりたいけど、こーだから諦めるじゃなくて



あれもこれもって欲張って全部やる。



どーにか、こーにかなんとかして全部やる。



無謀な事でも、命ある限りチャレンジする



チャレンジ精神を忘れない。



人生、同じ波は来ないから。



一つの波が来た時に、迷わずそれに乗る。



そう、私は決めたからよって。



私は何も知らない父に言った。



父は、そうか…と一言。




9月末。


蘇る記憶と共に



再び悪夢を見る。



闘病生活から抜けていたのに



今度はツーではなく



私の父が肺ガンの疑いが出てきた。



私の顔が曇る。



なっていなければ、検査とは言われない。



何かがあるから検査と言われる。



何もなければ何も起こらない。



これは嫌と言う程見てきた。



だけど、父の肺の影が気になると言う。



正直私は、やったな…と。



肺がんになってしまったんだな…と。



すぐ思った。



検査をする前から、既に私は転移を疑い



そんな呑気にしてられないと思いつつも



検査をしてもらったんだけど。



うちの父は、高血圧で、常々ネックなことに



ワーファリンを飲んでいる。



だから、どうなるか?って。



検査するにも一度ワーファリンを抜かなければならない



一つ検査するにも人の倍時間が必要。



1週間かけてワーファリン抜いて



検査して、そのあとまた1週間かけて



ワーファリンを入れる。



そんなことやってたらさ?



いじくった細胞はどんどんどんどん



威力を増してでっかくなるのにね。



それもそれで、しょうがない…



抜かなくちゃいけないのは、どーしようもないから。



そんなやって、1週間、2週間と経過してる中



私がコロナになった。



コロナと診断されてから、真っ先に思ったことは



お父さんにうつったらヤバい。。。



きっと肺がんだと思って計算するとさ



1ヶ月あくわけよ。



治療にもってくまでに。



だから慌てて私は家を出てホテル隔離を選んだの。



1日1日と過ごす中で、私が解放される日に。



まさかの父がコロナ陽性。



もーさ。



正直終わった…と思ったよ。



治療まで1ヶ月先になるの予測ついたし。



1ヶ月なんて、倍に膨れ上がるのは簡単なんだから



オペできなくなるんじゃないか?って。



なんで、よりによって父にうつるんだか…



さすが凶の持ち主よ私は。



なんでも良い方向になんて進まない。



いつだって、険しい道しか残されず



やっとこさっとこ針の山を上がる。



それが私なんです。



そしたらさー?



もう検査結果出ても良いのにさー?



出ないわけよ。



まさかの。



細胞足らずで、もう一回採取ですって。



はぁ???



普通さ、必要な分とるんでしょ。



何?足りないって😫



ま、何種類もとるのは分かるけども?



そりゃないよーだよ?



そしてさ、今度は肺に針さしての採取ね。



何をやってんだよ?って。



まーた2週間検査結果出るまで待つわけよ。



9月末には肺がんの疑いかかってて



今11月よ。



放置もいいとこ。



そんなんやってるうちに、微妙に咳の音が



違うことに気づく。



あー。



やっぱデカくなってんな。



まさか?転移なんて?



してそーだな。。。



してなけりゃいいけど…



またしても、私だけ顔が曇る。



父も、母もなーんにも分かってる様子はなく。



私だけが気づいてる。



微妙に咳が違うことも



微妙ーに悪化していると感じるのも。



何年、このガンを見てきたと?



何年、何人、このガンというもので



あの頃一緒にいた仲間を見送ってきたと??



ツーは、現実を知るのが怖くて。



あの頃の仲間のとこには行きたがらなかったから。



私がいつも一人で仲間の元へいき



見送り。



そしてサヨナラをしてきていた。



だから、たっくさん、たっくさん



ガン患者をもう14年はみてきてる。



間違う訳ない…



なんとなくだけど、私の頭によぎっていたのは



肺がんステージ4。