●2013年3月6日に行われた劇場公演にてAKB48仲谷明香が卒業。
約6年間AKB48に在籍していた仲谷明香(なかやさやか)
AKB48のシングル曲を歌う選抜メンバーに選ばれた回数は、0回。
0回です。
同期の渡辺麻友がシングル選抜メンバーに選ばれた回数は、24回。
《仲谷明香:歴史編》
●声優を目指す仲谷明香がAKB48というアイドルグループに加入した理由は?
週刊朝日や仲谷明香の自著「非選抜アイドル」に書かれています。
まず仲谷明香が声優を目指すキッカケになったのは、幼稚園の時に当時流行っていた「ポケットモンスター」のピカチュウを真似した時に、友達に誉められてから‥
この時から仲谷明香は自分の声を意識する様になり、声優という職業を知ります。
年月が経ち、仲谷明香は中学生2年生の時に勇気を振り絞り母親にお願いをします。
『声優の養成所に通いたい』
母親は娘の願いを聞き入れ、仲谷は東京都豊島区にある声優の養成所に通う様になります。
勇気を振り絞っての『勇気』の意味‥、それは2つの意味がありました。
1つは自分の夢を母親に告げること、これには勇気がいります。
そしてもう1つの意味は‥『家計』
実は仲谷明香の両親は、仲谷が7才の時に離婚。
仲谷は、母親の千葉の実家に二番目の兄と母親との3人で引っ越しをし、1番目の兄は学校の都合で当時住んでいた盛岡に残った。という経緯があり、
仲谷明香の家は、お世辞にも裕福とは言えませんでした。
生きることで精一杯と言えた家族です。
ですが、母親からかえってきた言葉は、娘の願いを了承する言葉。
●東京豊島区の声優養成所では、声優の「基本」を徹底的に教えて貰ったそうです。
それは養成所の先生の持論にもとずくもので、直ぐに演技などの実技を習うのはプロになるには遠回り、プロは基本が出来ていないと通用しない世界。というものから‥
●仲谷が養成所に通い始めて半年が経ったある日、仲谷は母親から告げられます。
『これ以上、養成所に通わせることができなくなった』
‥…非選抜アイドル抜粋…‥
母は、それ以上多くを言わなかったし、私もそれ以上何も聞かなかった。
理由は簡単だった。
初めから(養成所に通うのは金銭的に)無理だったのである。
それでも母は、すぐに「無理だ」とは言えなかったのである。
それは、あまり何かをねだったりしない私が、珍しく何かを言ってきたというのもあっただろう。
私が本当に声優になりたいと思っているのを知っていたからでもあると思う。
あるいは、母のプライドとして子どもの夢をお金を理由に潰してはいけないと思ったのかもしれない。
だから、最初は「無理だ」と言えなかったのだ。
しかし何度か授業料を払ううちに、もう本当に無理になってきて、他に手立てがなくなって初めてそのことを告げてきたのである。
それが分かったから、その時の私はショックを抱くことも出来なかった。
むしろ、母への申し訳なさの方が先に立った。
母に負担をかけたこと以上に、母に気を遣わせたこと‥、
そして、娘に対して絶対に言いたくなかったであろう言葉を口に出させてしまったことへの申し訳なさで、とても居たたまれない気持ちになったのだ。
●この出来事以来、声優に対して以前抱いていた憧れや夢を抱かなくなった仲谷明香。
しかし、そんな仲谷に転機が訪れます。
それは、学校の友達の何気ない言葉。
‥…非選抜アイドル抜粋…‥
友達『ねえねえ、最近あっちゃん(クラスメートの名前)、学校が終わると急いで帰っちゃうの知ってる?』
仲谷『知らない、なんで?』
友達『それがねえ、何でもアイドルグループに所属したらしいのよ』
仲谷『ええっ!』
友達『詳しくは知らないけど、アキバ48?とか言うらしいよ』
●この仲谷明香の同級生「あっちゃん」こそが、そう元AKB48のあっちゃんこと前田敦子です。
アイドルにまったくといって興味がなかった仲谷明香ですが、
学校の同級生、しかも通学時一緒に登校していたこともある友達で、
さらに中学校では自分と同じ冴えない学生だった前田敦子がアイドル?ということで、AKB48に興味を抱くことになります。