アメブロのプロフィールをご覧いただくとわかるのですが、肩書を「余生デザイナー」なんて語っているボクです。

「何だよ、余生デザイナーって❓」

初めて聞いたかと思います。ボクも聞いたことがありません。

今は何者であるのかをわりと自由に名乗れる時代。

 

メディアアーティスト

リーマントラベラー

プロ奢ラレヤー

  :

  :

 

どれだけ際立てるか、みたいな問われ方もしています。

組織に属しているとあまり自分の個性を打ち出していくという考え方は求められません。

でも個人で何かをやっていくとなると「○○○のことだったらあの人!」って思い出してもらうことが重要です。

 

自然想起してもらうにはとてもコストがかかることなのですね。

ってことで、自分も個人で動くようになってから「なんて名乗るのがいっかなー」って考えていたのでした。

 

そこで改めて「余生デザイナー」

ん~正直いまいちパッとしない印象を与えます…。

 

余生という言葉がどうしてもシルバー世代を思い出させるからでしょうか。

ちなみに「余生」を辞書で紐解くと「盛りの時期を過ぎた残りの生涯」とあります。

盛りの時期を過ぎた余りの人生が余生という定義ですが、余りの時間がわりと長く続いてしまいそうな人生100年時代。

昭和老人のような人生フォーマット👉現役引退、定年後、老後…とかとか、そういう区切る概念が通用しなくなるこれからの時代では、人生の最果てまでもビンビン元気に(?)盛りでありたいじゃないですか。

余生を余生としてフェードアウトしていくと考えるのではなく、走り幅跳びのように今から助走をつけて大きく高い爺(ジ~)ャンプの準備をしてく。

 

最期の最期まで我が人生である!(ラオウ風)

 

そんな夢を持った人生の残り時間をデザインしたいな~って思いながらつけました。

ここまでの話からわかるように、余生デザイナーとして世の中に価値提供できるのはこれからです。いま何かできるわけではありません。

 

「こうなりたい!」ってことを先に宣言してしまいました。結果はあとからついてくるようにできています(きっと)

 

どうか長い目でやさしく見守っていただけると、46歳からでも新しい夢に向かってくじけずに頑張れそうな気がします🙏

無名ブロガーの一週間が過ぎました。

 

ブログのアクセス数も反応もとても寂しもので、カッコウが鳴いています😥

知ってますか?「閑古鳥(かんこどり)」というのはカッコウの別称なんですよ(豆知識)

「閑古鳥が鳴く」って表現するとさびれてる感が漂うので、「カッコウが鳴く」と表現してみました。ひねくれ者です。

数字を目標にセットするというのは、やるべき行動量を可視化する上で大事なことです。

でもココロの豊かさという視点では、これらの数値はさして関係ありません。

 

ウソです。つよがりです。

 

数値目標は大事だけど、今は気にせず続けてみます。

ひとまずコツコツ日々更新していくことを自分のルーティン化することが目的なので、(涙目で)頑張ってみたいと思います。

 

 

2歳児の本能あふれる行動を観察していると46歳は人生を考えます。そしてふと思うのです。

 

その「無心」で「がむしゃら」で「失敗してもどうってことない顔」で立ち向かう姿に生きるチカラの源泉が込められているな、と。

 

大人になると、やれそうなことからやりたいことを探していくようになってしまう。

「この歳になって失敗したくない、恥をかきたくない」みたいな小賢い思考。

だからカチカチに固まってしまった既存の枠からはみ出すことをしない無味乾燥の死んだ目…。

そういう絶対的平和なルーティン人生の中で歳を重ねて行くと、やがて人生の終わりを迎える日にこう思うのです。

「もっと○○○やっておけばよかった…」



人は少なからずやり残しを感じたまま、後悔的な念に包まれながら死んでいきます。悔いがない人はいません。

命にはタイムリミットのタイマーがセットされていることを、普段は意識することなく生きています。

でも確実に一秒一秒、こうして無名のブログを読んでる間にも、時は無慈悲に過ぎ去っていくのです。

 

気がついてみれば今年だってあと1ヶ月半。

 

今年は何かやりましたか?やり遂げましたか?

 

言えることがあるならば、今年2歳児だった彼ら彼女らの進化のスピードと、46歳とではまったく比にならず。むしろこちとら退化が始まりだしています(泣)

年末に近づくといつも思いますよね。

「じぇじぇじぇ、今年ももう暮れなの~~~?」(古)

そんなこんなで、進歩したのかしてないのかわからないまま、今年もまた一つ歳を取りました😂

   :
   :


みなさんに質問です。

「あなたはいま死んだとしても後悔はないですか?」

「やりたかったこと、ココロの引き出しにしまいっぱなしにしていませんか?」

オトナが2歳児のような全力の無邪気さでココロを満たしながら、なるべく悔いなく死んでいく。そんな世界を実現させたい。

 

46歳がいま密かに考えている「虹色フューチャー」プロジェクトのコンセプトです🌈(期待だけさせる終わり方)

 

人の一生を太陽の運行になぞらえて考えた心理学者ユングは言いました。

「40代は人生の正午である」と。

 

現在46歳の自分は、もうランチタイム時にいるってことですね💦

「人生100年時代」なんて言われだしたのはここ最近のことで、ちょっと前までは100歳まで生きたら大往生。

 

100歳まで生きたとて、しあわせなら良いのですが、歳をとればいろいろ問題も起きてきます。

 

なので、必ずしも長寿が喜ばしいことかはわかりません。

 

「終わりよければ全てよし」なんて言葉もありますが、人生後半から楽しく生きられたらどうでしょう?

 

生きることを楽しみながら人生に深みを持たせることができるじゃないですか!

 

魂は輪廻転生を繰り返し「魂年齢」なんて概念がありますが、肉体はせいぜい100年ほど。


この世に生まれてきた(肉体を授かった)人間というのは、100年間地球生活を楽しめる肉体を一時的にレンタルしてきたなんて考え方もできます。

 

人の一生というのは、この肉体を通して魂が抱える試練を日々クリアしていかなければならない物語なわけです。

 

試練というと苦しいイメージを持っちゃうけど、楽しいことやしあわせを感じる機能がボクらにはプリインストールされている

 

ワクワクをたくさん体験しながら、次の魂へとバトンタッチ!

 

こんなふうに考えてみると、肉体卒業(死ぬこと)があまり怖くなくなる気がします。

 

人生の正午(中年期)から人生の午後(老年期)へ。

 

奥様、午後からお天気空ですって☀(笑)

 

そんな取り組み、それが「虹色フューチャー」プロジェクトです🌈

読書はわりとしている方。琴線に触れるタイトルを図書館で予約しては、それを片っ端から読んでいる。

その対象は、「自分がいま何を課題と感じているか?」

その答えを本の中に探しに旅しているって感じかな。

悩んでいるテーマによって手にするジャンルが変わります。離婚前後は心理学とか哲学についてものすごく本を読みました(たぶんその手の言葉を心が欲していた)。

何というか、何もしないでいると悩みで心ははち切れそうになるので、本を読みながら先人たちの教えをいただき、心を落ち着かせていたってのが今の読書のスタイルにつながってきたように思います。

心がモヤモヤしてるときって、きっと理路整然と言語化できないからずっとモヤモヤが続くんだよね。モヤモヤって言葉にできないから「モヤモヤ」って言葉にまとめちゃってる。

でもそのモヤモヤをこまかく分解して、その一粒一粒の感情が一語一語の言葉に紐づいていくと、なんだかとてもすっきりした気分になって心の霧が晴れていくような感覚を味わえます。

 

これがね、読書の痛快なところなんだよね。


 

本の中で出会ったお気に入りの言葉はノートにメモして記憶に留める工夫をしています。すぐ忘れちゃうので💦

モヤモヤしてるときはなるべく言語化する努力をしてみると、心が落ち着いておすすめです。