Severance Hall

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想い出の女(ひと)、アン


渡米した1989年の大晦日の日、私達家族はある女性から自宅へ招待を受けた。彼女とは、クリーブランドオーケストラのシーズンチケットを購入した際に、たまたま隣の席であったことがきっかけで知り合った。最初は軽く挨拶を交わす程度であったのであるが、回を重ねるごとにだんだんおしゃべりが弾み、私たちが日本人であることがさらにおしゃべりに拍車をかけた。というのは、彼女は日本文化に興味を持ち当時カルチャー教室で日本語を習い始めていて、会うたびに自分の日本語を試そうと、盛んに日本語で話しかけてきたからである。しかし、一月に2回の、しかもインターミッションのごく限られた時間のことであったから、彼女には物足りなかったのであろう、私達家族を自宅に招待してくれたのである。

彼女の名前はアン。アンは私達のために手料理を振舞ってくれた。私たちはアンの心のこもったオードブルやスープ、チキン料理、それに自家製のケーキに舌鼓を打ち、ご機嫌であった。お父様は海外に赴くことが多い仕事で、部屋の調度品も物珍しいものが沢山飾られていた。そんな部屋でとりわけ目を引いたのが等身大の乙女の写真で、立派な額に納められていた。聞くとアンの17、8歳頃のものだという。当時のアンも初老にしては若々しい魅力的な女性であったが、その写真の女性は花の妖精のように、それはそれは美しかった。アンは年老いたお母様と二人で生活していたが、すでに痴呆症を患っていて、見知らぬ私達の前でも時折わめくやらアンの手を煩わせた。比較的若い頃から発病し、ずっとアンが面倒を見てきたらしい。お父様は他界しており、アンは結婚もせずに、ひたすらお母様の面倒を見ていたのである。アンはそのことを当然のことのように受け入れ、事実私達をそういう事情のある自宅に招待してくれたのである。私達はいたく感動した。アンは心の底から美しく輝いて見えた。

食事のあと、アンはピアノ演奏を披露してくれた。それはとても優しい調べだった。私たちもお返しに普段歌っているコーラスを数曲歌った。特にその日は、いつもより心を込めて歌ったような気がする。お母様も静かに聴いてくれた。クライマックスはアンから私達へのプレゼントだった。プレゼントそのものも嬉しかったが、その渡し方が心憎かった。4人にそれぞれプレゼントを準備したが、部屋のどこかに隠しているので自分たちで探してごらんというのである。私達は胸ときめかせながら、綺麗に整頓された部屋々々を探検しながら探し回った。わたしへのプレゼントは、隣の部屋の窓際のカーテンの影に置かれてあった翌年のカレンダーで、有名クラシック作曲家12名の肖像を楽しめるものであった。銘々が宝物探しに興じた。私達はその演出に感激したものである。

 私達もアンを自宅に招いて日本料理をご馳走したり、翌年私がクリーブランドオーケストラコーラスの団員になり、本番前のオケ合わせの練習に招待したりした。帰国前日もわざわざ訪ねてきてくれた。帰ってからもグリーティングカードを交換し合っていたが、引越しを繰り返しているうちに音信が取れなくなってしまった。今頃どうしているだろう、もう一度会いたい想い出の女である。アン、君はいずこに・・・。