前回記事の続きです。
晩年は4両固定編成5編成にまとめられていました2100・210形ですが、そのグループを構成するモハ210形、クハ2100形とクハ2000形はそれぞれ全く異なる経歴を有していて、固定編成となったのは1967年からのモハ210形更新修繕以降になります。ただし、モハ210形の更新修繕では、クハ2100形と似せた形態の中間電動車に化けたのでぱっと見生まれながらの相方のように見えますが、細部を観察すると差異が見られました。
そんな生まれも育ちの異なる車両たちなので、モハ210形、クハ2100形とクハ2000形について別々に記述したいと思います。
モハ210形
モハ210~モハ219…10両
京成電車210形モハ212…京成津田沼駅にて1988年3月26日撮影
210形は1932年に200形の増備車として10両導入、当初は半鋼製・両運転台のつりかけ駆動車(登場時の電車・電気機関車はまだカルダン駆動が実用化されていない時代なので、全てが吊りかけ駆動でした)でした。200形以降の京成電車の特徴として、両側面の側面配置が点対称になっていて、扉の目の前に座席があるという形態になっていましたが、これは無人駅での集札の便を図ったためと言われています。モハ210は空襲によって車体を焼失似たため、1948年に500形モハ507、510形モハ512及び100形モハ109とともに車体を新造していますが、この時の新造車体は食パンみたいな運輸省63形電車に似た京成電車らしくない形態でした。この車体新造による復旧が、後のモハ210の運命を他の9両と異なるものにすることになります。
1950年代に車体内外の特別修繕や難燃化などの改造が実施されますが、1966年度から1967年度にかけて更新修繕が実施され、施工前の面影を全く残さない姿に変貌します。京成電車では1953年開始の100形更新修繕から車体を新造(台枠を活かして更新する場合と、台枠ごと新造する場合がありました)するのが基本となっていましたが、この210形では、元々特定の相方となる電動車がなかった2100形と組合わせることが前提の中間電動車とされることになり、一連の更新修繕において初の中間電動車となりました。それだけでなく、台 車や電装品も一新され、ブレーキが発電ブレーキなしの自動空気ブレーキのままながらカルダン駆動となり、台枠以外はほぼまるごと新造されています。☝の写真で左側に連結しているのは2100形クハ2101ですが、細かく観察すると戸袋窓周囲の処理(モハ212は外板より一段窪ませて戸袋窓をはめ込んでいるのに対し、クハ2101は外板を窪ませずに戸袋窓をはめ込んでいます)やここではわかりにくいですが雨樋が側面上部にしかないクハ2101に対して連結面の上にも回っているモハ212、両者の屋上通風器の形状・配置、床面高さなどが異なっています。この更新修繕では、1948年に車体を新造していたモハ210が、車体形状の揃うモハ507とモハ512とともに行商専用列車に運用されていたことから除外されていて、その代替に510形モハ511(1935年導入)と車号を交換し、モハ210は廃車まで食パンスタイルのままモハ511として運用されることになります。
京成電車210形モハ211車内
座席端のパイプや網棚、つり革を支持するパイプ周囲、広告吊りなどは更新修繕当時の新造車である3200形と同等品らしいです。モハ210形同士の連結部は分割しての運用に備えて貫通路は前面側と同寸で、連結器も密着自動連結器なのに対し、クハ2100形との連結部は広幅貫通路に半永久型連結器となっていました。
“さよなら2100・210形”として“青電”カラーが復刻された2102編成の車内は、広告スペースを使って2100・210形の経歴やお別れのご挨拶、懐かしの写真などが掲出されていました。
車内はいずれもモハ211で、千葉中央駅で1988年3月26日撮影
クハ2100形
京成電車2100形クハ2101の京成津田沼止め普通 京成津田沼駅にて1988年3月26日撮影
京成電車2100形クハ2102の京成金町行き普通 京成高砂駅にて1987年9月撮影
京成電車2100形クハ2102の千葉中央行き普通 京成高砂駅にて1988年3月25日撮影
このカラーリングでの千葉中央行きはリバイバルならではですね。
京成電車3150形モハ3166の京成上野行き普通㊧と2100形クハ2102の京成津田沼行き普通 1988年3月26日撮影
千葉急行電鉄(現・京成電車千原線)開業前は、1番線と2番線からの交互発車でした。
京成電車2100形クハ2102の京成高砂行き普通 京成小岩駅にて1988年3月30日撮影
京成電車2100形クハ2103の京成金町行き普通 京成高砂駅にて1988年2月撮影
京成電車2100形クハ2103の京成高砂行き普通 京成津田沼駅にて1988年3月26日撮影
京成電車2100形クハ2104の京成金町行き普通 京成高砂駅にて1988年2月撮影
2100形は1952年と1953年に11両が導入されました。京成電車としては終戦後以来、220形と600形に続く3作目の車両となり、資材欠乏の中作られた前2者とは打って変わって、半鋼製ながら屋根まで鋼製とした張り上げ屋根やウインドシル・ヘッダー(窓上下の補強のための帯状の出っ張り)のない滑らかな外観、板バネを止めた近代的(当時としては)な台 車、貫通幌の採用など、以降の京成電車の基本になった車両です。但し、制御車(クハ)のみの導入で、将来の電装化を想定した構造ではあるものの、相方となる電動車は導入されず、既存の電動車と連結して運用されました。11両導入されたうちのクハ2110とクハ2111は、1956年以降、700・2200形の一員として運用されることになり、1969年に運転台を撤去して中間付随車化されるものの1974年に廃車(クハ2111は新京成電車に譲渡、クハ2110は解体処分)されています。
1960年代前半に車体の全金属化や室内灯の蛍光灯化、窓枠の更新(開閉窓はアルミサッシ化、固定窓はHゴム化)を施工、クハ2101~クハ2109については1967年に更新修繕後のモハ210形の相方とするため電装品の一部分散配置や連結側貫通路改造、1970年から1971年に施工された特別修繕で前照灯2灯化や前面貫通幌撤去などが実施されています。なお、210形との固定編成化では1両不足するため、2000形クハ2008がモハ219の相方に抜擢されています。2000形は1948年から1950年にかけて運輸省・国鉄から18両払い下げを受けた制御車(クハ)です。その中でクハ2008は1961年施工の更新修繕で全金属製の車体を新造、当時の2000形や100形更新車同様、屋上に通風器を設置せず、側面の2段になった雨樋の間に断続的に配置されたルーバーが通風器となっていました。また、2段の雨樋のうち、下段の雨樋は前面と連結面にも回り込んでいて、外観上の特徴となっていました。前述の理由から、1967年以降2100・210形のグループに組込まれ、各種改造も同様に実施されています。
2100形クハ2102車内 千葉中央駅にて1988年3月26日撮影
210形と比較してみると、座席端の処理や扉脇の手すり、網棚より上の内張などにに差異が見られます。
引退直前の車両が往年のカラーリングを復刻するというのは、今や珍しいことではなくなったのですが、30年前の1988年時点では、国鉄末期~分割民営化の頃の機関車や1987年の近鉄電車6800系程度しか前例がなく、このリバイバルは、それらの先駆けだったのではないかと思われます。もっとも、一度使用をやめた色を後年復刻するというのは簡単なようで実は難しく、いざ復刻してみると「なんか違う」感が感じられたりするものです。それらの感覚はそれぞれの記憶のイメージや写真が原点での比較だったりするので、正解はないのかもしれませんが・・・。この“青電”も、ワタクシはリアルに“青電”だった頃もリバイバルも見ていますが、リアルな“青電”はこんなきれいなイメージではなかったです(笑)。
昨年末に発売されたトミーテックの“鉄道コレクション第25弾”に京成電車200形が含まれていますが、これの製品化でもかなり色で苦労してと聞いています。
現在の京成電車は、3400形とAE形を除き、ステンレス車体の車両ばかりになってしまい、このようなリバイバルも期待できそうにありませんが、あるとすれば3600形引退記念でのファイヤーオレンジ帯復刻ぐらいでしょうか・・・