2351-1215さんのブログ

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私は幸運な事にある程度の緊張を伴った関係を保っている友人が少なからずいる。
経歴上アカデミックな人間が多く、同業には気の置けない人間しかいない。
往々にして後者の方が親密であるが、前者のような人間と話す事でインスピレーションを受ける事はままある。

先日、名門と言える大学の、人文学を専攻する青年と話す機会があった。
私の大学時代の後輩のまた後輩という関係で、年齢も4つは違ったと思う。
彼は私とその後輩が通った大学に二度落第し、東京に出たそうだ。
そのためか、下らない劣等感の塊だった。
そして、とにかく彼は嫌韓派であった。
それ自体は珍しい事でも何でもない。
私の専攻は人文学ではなかったし、彼が真摯にそう研究するならばそれにも一理はあるのだろう。
どんな思想にも、大幅な曲解を加えれば正当化の一端を見出す事はできる。
最もそれは殆どが上滑りの言葉遊びでしかないが。

しかし彼の不恰好な口から飛び出す持論はどこまでいってもエンターテイメントの事だけであった。
とにかく取り上げられる事も嫌といった具合だ。
こういう人間は形ばかりの客観性しか持ち得ない最も退屈な人間である。
言い換えれば救いがたい白痴である。
何度も言うが表現の自由はそんな事の為に存在するのではないし、それを論拠にするならば、拡大解釈によってその価値を暴落させたマスコミ、彼が嫌悪する韓国を広告するマスコミに寄り添う事になる。
何故こんな話をしたかと言えば、今日世界で有数の傑作として知られるこの作品は、戦争のプロパガンダ映画であるからだ。
それが何を意味するかは分かるだろう。

私は先程の青年が知的でないとは思わないし、学歴などはある程度からはあまり関係のないことだと考えているが、直ちに退学するか、学者など諦めて俗に生きる事を勧めて切り上げた。
残念な事に、学歴社会が無くならない限り彼が俗に生きるということは超一流企業に勤める事になるだろうが。
フィッツジェラルドはベンジャミンバトンに対してさほど思い入れは無かっただろう。短編だから云々ではなく、作品を貫く思想がない。批判的になっているのでなくそれが却って感性迸る作品に仕上げている。
グレートギャツビーにしても最大の魅力は思想ではなく情緒にあるわけだが、そこにはフィッツジェラルドの生に対する絶望的な意志もはっきり感じられる。
いや、もはやその二つは分離不可能なほどになっている。
それが傑作たる由縁だが、レイモンドチャンドラーのロンググッドバイにも同じ事が言える。
そしてそれを下敷きにしたこの作品は見事なまでにそれをぶち壊している。
私は作品の批判はしないと決めているのだが、これは多くのチャンドラーファンを失望させる駄作なので例外とした。

マーロウは合っていない。テリーは余りに酷い。ストーリーの安易な改変も歪曲も、それの結果としての結末も殆ど存在しない方がましな程最低極まりない。
悪い意味で日本的な女性の描き方も最低だ。
駄作とはストーリーの展開で決めるものではない。
原作者の死後に勝手にその作品を最悪の方法でぶち壊したこのようなゴミを指す。
私はこと娯楽に関する限り悪く言う事が嫌いだ。目にするのも不快だ。
大抵の批判は低次元での誤解か自らの無能から生じる。
そこに見える稚拙な自意識が苛立たせる。自意識も突き抜けて高まれば屈折した笑いに繋がるが、表現の自由の下に無為な批判を繰り返す限りそれ以上の発展はない。
そもそも表現の自由は国家の変革の可能性を保証するもので、弱者が強者に対抗する手段だった。
それをマスコミが下らないゴシップの隠れ蓑にし、一方的に垂れ流すことで国民を弱者にしてしまう。
当然国民にも表現の自由はあるのだが、多くはその情報が産む国民内の階級で争うだけで、真に大元の権力には目を向けない。
結局そうして被害者が被害者を攻撃してさらに人間に対して屈折した人間を産む。

余りに話が退屈で無駄なので本題に戻る。
いきなり述べたように、私はこの作品に並ならぬ思い入れがある。
信じられないくらいに感傷を受けた。

なので何も記さない。言語化したくない程の感情がある。

ゲイリーオールドマンはとてつもなく完璧だ。だがMVPではない。

この作品は展開を把握するための見返しはあっても、展開を理解してからの見返しは有り得ない。
そんな気は全く起こらない。
興醒めでしかない。

予備知識は一般的な高校レベルの冷戦事項について把握出来ていれば問題ないが、展開の理解には相性と多少の頭の回転はいる。
しかし断言するがシリアナよりは格段に分かり易い。
寧ろ私は未だかつてあの作品を理解し得た人を知らない。

最後に一つ、キャスティングミスを指摘する人がいるが、それは多くの人が非常に共感できると思う。