子供の頃、スパゲティといえば、ナポリタン(イタリアンと呼ばれることもあった)とミートソースだけだった。ナポリタンが先で、ミートソースは給食で「ソフト麺」で登場した。今思えば、邪道のスパゲティで、むしろ洋風細めのうどんという感じだったが、結構ファンがいた。
スパゲティはこの2種類が定番だったところ、僕たちの町に新しく各種のスパゲティを出す、イタリア料理店「イタリコ」が登場した。町にまだファミレスが1件できたか、ぐらいの頃だった。僕たちの高校でも、親と行ってきたとか、付き合っている女の子とデートで行った、という声がちらほら出始めていた。
高校3年の秋の土曜日、4限終了後、明日の日曜日が模試なのに、いまだに部長でいる文芸部の部室で一人本を読みながら、後輩の理恵を待っていた。
「遅れてごめんなさい」と重い鞄とLPレコードが入った袋をさげて理恵がきしんだ音のするドアをゆっくり開けて入ってきた。
本当はドキドキしているくせに、僕は平静を装いながら読みかけの文庫本を閉じて「大丈夫だよ。僕もさっき来たばかりだから」と答えた。
お昼を一緒に食べる約束をしていたので、僕と文芸部1年後輩の理恵とは学校の正門の急な坂を下りながら町の中心を流れる境川に向かった。川のそばに新しくオープンした、噂のイタリアンレストランに「イタリコ」に行ってみることにしたのだ。
土曜1時過ぎのこじんまりとした店内はほとんどが女性客でにぎわっていた。僕たちがエントランスで少し待っていると会計を終えた女性のグループが会計を終えて出て行くところで、窓際のテーブル席が空いた。
品のよさそうな細身のマダムが持ってきたメニューを理沙と二人で眺める。地味な制服姿のカップルは僕たちだけで、理恵はちょっと緊張している感じだ。
「先輩、いろんなスパゲティがありますね」
無口な理恵も驚いた様子だ。
「ミートソースを頼もうと思ったけれど、こんなにいろんな種類のスパゲティがあるなら、違うやつを食べてみたいね。お互い食べてみたいのを頼もうよ」
マダムが注文をとりに来たときに、二人でそれぞれ頼んだのは「スパゲティ・カルボナーラ」だった。二人して同じものを頼んでちょっと笑ってしまった。マダムもお勧めとのこと。
メニューの下に「ベーコン入りで卵黄とクリームのソースで北イタリア炭焼き職人のパスタ」と解説付きである。
数日前に親戚のおばから小遣いをもらって懐に余裕のあった僕はサラダもとって理恵にはオレンジジュースを勧め、自分は白ワインの小瓶を注文した。
「先輩・・・、大丈夫ですか」「平気、平気」
まずはサラダのドレッシングのおいしさにちょっと感動し、続いて運ばれてきたお皿に驚いた。
太めのパスタにレモンイエロー色のソースがとろりと絡んで、その中にベーコンのピンク色が散り散りになってまぶされている。未知の出会い。フォークにパスタを巻きつけて口に運ぶ。
「理恵ちゃん、うまいね」「先輩、おいしいです」
僕たちはありきたりの言葉しか出ないくらい、未知の味に新鮮な感動を覚えた。卵黄が溶け込んだクリームとチーズがベーコンの塩味でうまみを増している。こんな味のスパゲティもあるんだ。小瓶の白ワイン(メルシャンの白)をワイングラスに注いで一口飲んではカルボナーラスパゲティを口に運ぶ。濃厚なソースが白ワインの味に溶け込んでいく。
僕たちは夢中で食べ終え、マダムに送られて「イタリコ」を後にした。
「カルボナーラって初めて食べました。おいしかったです」「ありがとうございます。トマト味もお好きなら次はペスカトーレがお勧めですよ」
僕たちの高校は市街地に近い小さな丘の上にあり、僕は山のふもとの新興ベッドタウンから30分のバス通学、理恵は海沿いを走る電車で80分かかる町から通っていた。
「理恵ちゃん」、電車の時間大丈夫?」「あ、はい、今日は時間あります」
「じゃあ、ちょっと散歩でも…」「はい、…あの、…」「何?」
理恵が遠慮がちに言った。「先輩、顔、赤いですよ」「えっ・・・」
普段飲みなれていないワインの小瓶で、顔に出てしまったらしい。通りに止まっていた車のドアミラーに顔を近づけてみる。お猿のように真っ赤である。土曜の午後、制服姿では、格好悪いし、補導でもされたら…。
僕たちは人通りの少ない海岸通りを歩いた。僕たちの高校の制服を着た女子3人組とすれ違い、クスクス笑われた。
「あいつら、1年っぽいな、なんか恥ずかしいな、この顔」と僕は1自嘲気味につぶやく。理恵は無言で並んで歩いている。
午後の日射しが穏やかな海にも降り注ぎ、きらきら輝いている。まだ、日が暮れるまで時間がある。湾になった向こう岸には自衛隊の潜水艦が停泊しているのが見えた。こちら側は漁船やフェリーが泊ったり、航行している。僕たちは通りから、海岸に沿った遊歩道に入りベンチに腰かけた。
お互い、しばらく無言で午後の港の景色を眺めていた。
「あの…先輩を、今支えているものって何ですか?」「えっ…」
突然理恵が首を傾けて尋ねてきた。高2で習った倫理社会の授業のような質問に戸惑い、思わず
「うーん、それは…理恵ちゃんかなあ」とちょっとおどけて答えたのだけど、理恵は明らかに冗談としか受け取っていない表情でくすっと笑った後、僕の返事を待っているようにじっと見つめ返してきた。
―いかん、ここは文芸部の部長として、もしくは先輩の立場を少し超えた「つきあいはじめた」 男として、パシッと決まるフレーズを出さねば…
「うーん、今の自分を支えているものって、…サルトルやハイデッガーの実存主義かなあ。
ほら、理恵ちゃんも今倫社の授業で習っているはずの…」
「あ、それ次の授業で習うはずです。今ちょうどキルケゴールに入りました」
「キリスト者としての実存主義だよね。神の前に単独者としてひとり立つ・・・て感じかな」
「さすが、先輩、倫社得意科目でしたよね」と素直な口調で理恵が答えた。
―いかん、このままではただの社会科自慢のモードになってしまう。このまま世界史モードに入 ったら、自分はとまらなくなってしまう。ああ、カエサルのすばらしさを伝えたい。いや、
オクタビアヌスのしたたかさか、結局クレオパトラにはまってしまったアントニウスまで語っ てしまいそうだ。そうだ、確かにクレオパトラに誘惑されてからのアントニウスはクレオパト
ラが心の支えだったわけで…
「いや、僕は理恵ちゃんがいて、こうして時々二人で会ってくるから、毎日がすごく楽しいっていうか、勉強もがんばれるってわけで…」少し理恵は緊張した顔になり、小さく頷いた。
「理恵ちゃんは、心の支えって何なのかな」さりげなく聞いたつもりだが、―私の心の支えは
先輩です、って言うわけないのはわかっているつもりだ。
「あの・・・それがよく、わからなくて。何なのかな、って思って」
「理恵ちゃんも知っているほら、うちのクラブの幽霊部員の田畑、あいつなんかはクリスチャンだから聖書が心の支えだと思うけどね」
「僕の場合特定の宗教によりどころは求めていないし、そういう意味では未来に描くなりたい自分ってのが心の支えかな」今度はゆっくりと理恵が頷いた。
「私も、なりたい自分を見つけなくっちゃ、ですね」
少しだけ微笑んで理恵は視線を港の景色、傾き始めた陽射しを受けた海に向けた。
―なりたい自分じゃなくても、今のままの理恵が、素敵なんだけど…
僕は口に出して言いたかった。
しばらくまた、お互いベンチに腰掛けたまま海を見ていた。
「先輩、カルボナーラおいしかったですね。」理恵が、こちらを向いて無邪気な微笑を向けた。
僕にとってのカルボナーラは、初めて食べた日の理恵との思い出に結びついている。
