「そんなに嫌なら辞めてしまえばいい。無理してやるほどの事じゃないだろ。」
和男は読んでいたスポーツ新聞を畳みながらそう言うと、幸恵に目を向けた。
「簡単に言わないで。私だって出来る事なら、そうしたいわ。...でも生活の為に仕方なくやっているのよ。」
幸恵の円らな瞳からは、今にも大粒の涙が溢れそうになっていた。
週末、二人はオープンカフェでランチを食べながら様々なことを話していた。
いつもなら他愛もないことを話している事が多い二人なのだが、この日は少し様子が違っていた。
「私、もう今の仕事が嫌なの!私には向いてないのよ。...ストレスが溜まりまくりよ!」
半ば切れ気味な口調で幸恵がそう言うと、和男は煙草を1本取り出し咥え、ライターで火を点けた。
そして、「ふぅ~~~」と旨そうに煙を噴き、珈琲を一口飲んで幸恵を見つめた。
「俺のところへ来るか?..ん?...俺ならいつでもOKだ。」
和男のその言葉に幸恵は思わず「えっ?」と、驚きの声を漏らした。
「それって...一緒に住むってこと?」
「あぁ、そうだよ。...幸恵さえ良ければ。」
和男の急な話しに、幸恵は戸惑いを隠せなかった。
幸恵は確かに和男のことが好きであった。
しかし交際していると言えるのかどうか、微妙な感じであった。
まだキスもしていないような間柄で、いきなり同棲を求められた幸恵は、どう答えていいのか困っていた。
「俺が嫌いか?...俺が君より10歳年下だからか?俺が幼く見えるか?...どうなんだ!?幸恵!」
迷っている幸恵に和男は、いつになく強い口調でそう言った。
通りを歩くカップルが、そんな和男に好奇の眼差しを向けた。
幸恵は答えず黙ったまま、和男の目を見つめ、やがて、うつむいた。
「はぁ~~あ。...なんだかんだ言ったって、結局、女は経済力のある男が好きなんだよな。...俺には、そんなもん無いし。..ごめんな。誘ったりして。」
和男は冷静になってそう言うと、煙草を灰皿に押しつけた。
「今日のランチ代ぐらい、俺に払わせてくれよ。...たまには、いいとこ見せなきゃ。へへへっ」
和男は苦笑いをしてそう言うと、幸恵と共に席を立った。
レジで払っている和男の背中が、幸恵には、どこか寂しげに見えた。
店を出て、表参道を並んで歩き始めた二人の髪を、秋のような涼しい風が吹き抜けていった。
「まぁ無理するなよ。...いつだって、お前には俺がいるんだからさ。頼りないだろうけど。...」
ズボンのポケットに手を入れ歩いている和男がそう言うと、幸恵は「ありがとう。...」と、小さく答えた。
レンガ作りの古い郵便局の角を曲がり、細い路地に入った所で、幸恵は和男の腕に手を絡め、訊いた。
「ねぇ?...私達って、友達?それとも恋人?...それとも...」
幸恵がそう言うと、和男は足を止め、隣の幸恵を見て言った。
「それじゃ、いっせいの~せで、お互い同時に答えようか?」
幸恵は「うん。」と、一言言い、うなずいた。
「それじゃいくぞ。...いっせいの~…恋人!」
ほぼ同時に、同じ答えを言った和男と幸恵。
照れ臭くなった幸恵は困ったような笑みを浮かべ、和男を見つめた。
和男は嬉しさと驚きで、思わず目を潤ませながらも微笑んでいた。
「嬉しいよ。ありがとう。幸恵...」
そう言われ、またうなずく幸恵であった。
再び、歩き始めた二人の腕は、さっきまでとは違い、しっかりと結ばれていた。
懐かしのヒットナンバー
松田聖子 「渚のバルコニー」
