ショートストーリー940 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
「俺、見送りになんて、行かないからな。...」


勇二は、素っ気ない口調でそう言うと、皺の寄った長い煙草を咥え、細い紫煙を天井へと吐き出した。


まだ、春の温もりとは程遠い、1月下旬の朝。


薬缶の口から、沸騰した湯の湯気が勢いよく噴きあがり、ピーッという耳障りな音を鳴らし始めると、二人の会話は暫し途絶えた。


「いつ帰国するか分からない女を、気長に待ってなんかいられない。。。そうなんでしょ?」


優子は、ガスコンロの火を止めると、気だるそうな声でそう言った。


勇二は、そんな優子の言葉に何も答えず、立てたワイシャツの襟下にネクタイをかけ、鏡を見ながら、慣れた手つきで締め始めた。


勇二と優子。。。


二人は今から2年前、名古屋で開催された国際リゾート博覧会で知り合い、いつの間にか交際するまでになっていた。

そして昨年の春から、それぞれの職場に近い小さなアパートで、同棲生活を始めたのであった。


並んだ、お揃いのマグカップ。

勇二のカップは優子のに比べ、ひと回り大きい。

そんなマグカップに、優子はスプーンでインスタント珈琲の粉末を入れた。

本当は、サイフォンで淹れた珈琲が好きな優子だが、せっかちな勇二に合わせ、今では、もっぱらインスタント珈琲ばかりであった。


優子は、ひとつ小さな溜め息をつくと、薬缶の熱湯をカップに注ぎ入れ、スプーンで二回ずつかき回し、居間にある小さな卓袱台へと運んだ。


その一連の動作は、もはや欠かせないルーティンのようでもあった。


「はい。。これ」


勇二は、トーストにブルーベリージャムを塗り、優子に手渡すと、優子は「ありがとう。」と、ごく自然に答え受け取り、勇二の冷めた目を見つめた。


「遊びじゃないのよ?...新しいビジネスの為に、暫らくの間シドニーへ行ってくるの!..観光旅行をするわけじゃないのよ!。。。なのに、何を怒っているの?」


勇二が醸し出す重い空気に耐え切れず、優子は珍しく強い口調で言い放った。


勇二は、それでも黙ったまま、トーストにジャムを塗り、ひと口、頬張った。


「うまい。...優子の手作りジャム...酸味と甘味が絶妙なんだよなぁ。」


突然、独り言のように勇二がそう呟くと、優子は拍子抜けし、鋭い眼差しで勇二を見つめた。

と同時に、思わず笑ってしまいそうにもなった。


「ごめん。...もう、この件に関して、二度と不平不満は言わないし...不服そうな態度も..見せないから。」

勇二は、珈琲を二口飲むと、ようやく笑みを見せ、とつとつとそう語った。



「分かった。。シドニーに行っても、毎日、少なくとも3回は勇二にメールするし、電話だってするわ。...だから安心して。」


優子も珈琲を二口飲むと、微笑みながら、そう答えた。



「あぁ。...ありがと。」

そう言い、照れ臭そうに笑みを浮かべる勇二を見て、優子は、出会って間もない頃を思い出した。


「この人...交際して2年経った今も、あの頃と、あまり変わってない。」


それは優子にとって、嬉しくもあったが、若干の物足りなさも感じさせた。



それから10日ほど経った、ある日の夜...。


残業で遅くなった優子が、アパートに帰宅してみると、そこに勇二の姿は無く、卓袱台の上には1枚のメモ用紙が置かれていた。


優子は「まさか!」と思い、駆け寄ってメモ用紙を手に取ると、そこに書かれている短い文章に目を走らせた。



「ちょっとの間、留守にするよ。...いつ帰れるか、まだ分からない。..用事が済んだら、必ず帰るから。...優子、俺なんかを愛してくれて、ありがとう。」


優子は読み終えると愕然とし、全身から力が抜けてゆくのを感じた。


あの日以来、勇二との関係は元に戻り、良好であった。


ゆえに、優子には勇二が失踪する理由など全く思い当たらなかった。



そして、メモの最後に記されていた感謝の言葉が、否が応にも優子に嫌な予感を生じさせた。



やがて、優子がシドニーへと旅立つ日がやって来た。


すでに勇二が失踪して、一月あまりが過ぎようとしていた。その間、勇二からの連絡は度々あったものの、所在や理由について、優子に語ることは一切無かった。



「とうとう今日まで、勇二、帰って来なかったか。。。残念というか、なんというか。。」

優子は、空港の搭乗ゲート前に並ぶと、目を瞑り、心でそう呟いた。


搭乗時間となり、優子がゲートを通過しようとした時、聞き覚えのある声が優子の耳に届いた。


「優子!...」


驚いて優子が振り返ると、手を振りながら駆けて来る勇二の姿があった。


「勇二!...」


優子は、人の波に逆らうようにして勇二のほうへ歩み寄ると、ゲートの柵を挟んで向かい合い、互いの手を強く握り合った。



「これまでの理由は、あとで話す。...俺は、またあのアパートで待ってるから。。何も心配せず、頑張ってくるんだよ。」


勇二は優子を見つめると、目を潤ませながら言った。


優子は黙ってうなずくと、「もう、こんな心配させないで!」と言い、勇二の頬に軽くキスをした。


「あぁ、二度とこんな真似はしないよ。...ごめんな、優子」


勇二は優子の手を更に強く握ると、そう答えたのであった。



やがて、優子を乗せたシドニー行きの航空機224便は、定刻どおり、羽田空港から飛び立っていった。




勇二は、優子に心配をかけまいとして失踪を装い、総合病院に入院し治療を行っていた。


勇二は医師から余命宣告を受けていたが、優子の渡豪に支障をきたすと思い、優子には秘密にしていた。



「優子が帰国して、再会するまでは...生きていたい。...ずっと、愛してるよ、優子」


青空の彼方へと去ってゆく航空機を見上げながら、勇二は、そう呟いたのであった。











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