ショートストーリー594 | 丸次郎 「ショート・ストーリー」
たとえそれが間接的であっても、人を誤った方向へ導き、騙すことに違和感も罪悪感も感じなくなった時、その者の人生は墜落の一途を辿り始める。。。

人がうらやむような高学歴だろうが、金持ちだろうが、権力者と繋がっていようが、その人間自体の躍動感は徐々に消え失せてゆく。


肩書きと金と権力ほど、当てにならない物はない。なぜなら、それらは皆、極めて私的な欲望、野望が絡んでいるからだ。

自分さえ良ければいいという低次元の欲望が、同じ低次元の欲望に駆られた者を引き寄せる。その者がいかにご立派な肩書きを持ち、権力の座にいたとしても、その者もまた、同じように墜落の人生を歩み始めるのだ。


私的な欲望を満たす為に、野望を達成する為に作られた虚飾の人物像は、偽物のブランドバッグの如く、やがてあちこちの縫い目がほつれ始め、使い物にならなくなる。


己を守ってくれていた権力者からも「用なし」として捨て去られた時、その者は初めて気がつくのである。

自分の欲望が自分を転落させたということに。。。そして取り返しがつかない程、汚れてしまった己の心と体に。。。


今から5年前...俺がこの街の繁華街で出会った女は、まさにそんな人生を地で行くような女だった。


女には、2年間連れ添った亭主がいた。真面目で優しく物静かな亭主だったらしい。女は以前つき合っていた男の執拗な暴力から逃げるように、その亭主と結婚した。

女にとって所詮、その場しのぎに過ぎない結婚であった。

元来、欲深な女にとって、おとなしく家庭に納まり平凡な主婦を演じ続ける日々は、そう長くは続かなかった。

$丸次郎「ショートストーリー」

周りから、もてはやされ、お偉いさんに愛想よく微笑むだけで高額の収入を得ていた頃の記憶が、女の眠っていた欲望に再び火をつけた。


元々備わっていた美貌と天性の才能ともいえる愛嬌。下心のある男なら、すぐに引っ掛けることができそうな妖艶さが、その女には備わっていた。


今思えば、その妖艶さと美貌が、この女にとっての不幸であり、やがて己の身を潰す災いのもとになったのかもしれない。。。


一夜にして数十万の泡銭を手にしていた女が、一円にもならない専業主婦生活に耐えられる筈もなく、やがて夫に嘘をついては、以前いた業界の腕利きコーディネーターと会うようになっていた。


女にとって真面目で優しいだけの夫は、例えて言うならば玄関先の傘立てのような存在でしかなかった。あると便利だが、ときめきも刺激もなく、家の中にいる必要もない。

この女には、夫の心に寄り添い、共感し支えようとする気持ちなど、初めから微塵もなかったのである。


女は夫の知らぬ間に、業界復帰に向けた段取りを着実にこなし進めていった。女の商業的価値を高く見積もっていた腕利きコーディネーターは、女の為に特別な処遇を用意し、女の復帰を待った。


ある夜、女は夫に、その話を切り出した。

夫は黙ったまま突如、女の頬を平手打ちした。乾いた音がリビングに響き渡り、すぐに女が本性をさらけ出した。

「あなたの収入に頼らなくても、充分優雅に暮せる力が私にはあるの。..私を必要としている業界があるし、復帰を待ち望んでいる人間だって山ほどいる。..あなたのような冴えない男に一生縛られて生きてゆくなんて、これほどバカバカしいことはないわ。..2年間も妻でいてあげたのよ。私に感謝したら?」

それは、女が世間向けの「良妻」という名の仮面を脱いだ瞬間でもあった。


「この化け猫め!..二度と、この家に帰ってくるな!」

おとなしい夫が、現金な利己主義者の素顔を露呈した妻に吐いた言葉は、そのまま決別の言葉となった。

まもなく二人は離婚した。女は世間に向けて悲劇のヒロインを演じ、同情を得ようとしたが、女が思うほど世間は愚かではなかった。


私利私欲を満たす為、理不尽な離婚を強行したツケは、やがて自らの首を絞める結果となって女に現れ始めた。


裏で糸を引く権力者の傀儡に成り下がった惨めな姿は、巨額の収入や地位では埋め合わせられないほど、女の心に深い傷を与えていた。


その傷は、たちが悪い。

なぜなら私利私欲、野望に駆られている間は本人に自覚症状が現れないからだ。。。


やがて年月が経ち、あれほど自分を持ち上げてくれた権力者や取り巻きが周りから消え去り、未熟な自分だけになった時、悲鳴をあげても治まらないほどの心の痛みが、孤独な闇と共に女を襲い始めるのである。。。


その時、ようやく己の良心に目覚めても、もう遅い。。。女は一人、過去の栄華にすがりつき、崩れ去った己の美貌と寂れた体を引きずりながら、愛のかけらも見つからない枯渇した世間を歩いてゆくのである。。。。。








懐かしのヒットナンバー
八神純子   「気まぐれでいいのに」