翌日の午後、約束したとおり、茅葺五郎の経営するモデル事務所を訪れた和夫は、名刺に記されていたビルの7階にあるオフィスのドアをノックした。
わりと大きな事務所であった。
事務員らしき女性が対応し、和夫は、すぐに応接室に通された。
待つこと、10分。
スーツ姿の五郎が現れ、手短に用件を話してきた。
「つまり、この私さえ良ければ、この事務所で採用したいってことですか?」
あまりの急な展開に和夫はキョトンとした顔で、そう訊いた。
「まぁ、そういうことだ。ただ、この事務所でというよりも、ゆくゆくは新会社の代表になってもらいたいんだ。」
和夫は驚きの連続で、何が何だか分からなくなっていた。
「先輩、俺は、まともに会社勤めしたこともないフーテンですよ。なぜ、そんな俺を採用するのですか?」
そんな和夫の問いかけに、五郎は、単刀直入に答えた。
「理由なんて簡単だ。私の夢の実現には、お前の力が必要だからさ。」
五郎は、そういうと右手を差し出し、握手を促した。
和夫は、五郎の勢いに飲み込まれるように思わず手を差し出し、固く握手を交わした。
「よし!これで契約成立だ!...詳しいことは書面に目を通してくれ。そこにサインをくれれば晴れてお前は、うちの正社員だ!」
五郎は、そう言うと、次の仕事へと出かけていった。
事務員から就業規則などの書類を貰い、30分ほどで会社をあとにすると、ビルの前の歩道で和夫は事務所を見上げた。
ため息混じりの欠伸をしたあと、和夫はカバンを手に、街の中を彷徨った。
「これでいいのか?こんなんでいいのか?」
それは満足とも幸福とも違う、違和感と不安に満ちた感情であった。
公園の木立のベンチで缶コーヒーを飲みながら、法子のことを思い出す和夫。
その苦い別れのシーンが、コーヒーを、一層ほろ苦くさせた。
ブランコで一人遊ぶ男の子の姿が、遠い過去の自分と重なって見えた。
ブランコの斜め下に出来る小さな孤独の影は、何十年経った今の自分の影と同様、大きさこそ違えど、その濃さは変わっていない。和夫は、そう思った。
「期待なんてされても困るんだ。そもそも自分に期待なんていう窮屈なもの、していないんだから。」
空き缶を足で踏みつぶし、ごみ入れに投げ入れると、和夫は、ブランコの子供に手を振って、夕暮れのアスファルトに消えていった。
つづく
懐かしのヒットナンバー
国安わたる 「追いかけて」


