前回の休みで、デ・キリコ展に行こうとしたらちょうど最寄り駅で人身事故のため、電車が止まっていました。

のみならず、作業現場に出くわしました。


そして今日も休み。

前回は昼間でしたが、今日は朝から近場の山に行こうと駅に向かっていました。

すると、前回の休みに駅に向かっていたときと同じ、消防車のサイレンの音が鳴り響いてきました。

これは‥もしやまたでは?

でもあれから1週間も経っていないぞ(前回は火曜、今日は月曜の朝です)


その通りでした。

前回は昼間だったからまだ良いものの、今日はまさに通勤時間帯です。

しかも月曜の。

学校や職場に向かおうという方々が駅に集まっていましたし、そもそも中央線(そう、中央線です)は人口も多く、運ぶ人数は相当な数になります。


2回連続でこれに出くわしたことにまず驚きました。

時間帯がまったく違うので、そのような人は少ないと思います。


この数日前、沿線の別の駅でやはり人身事故があったようです。

でも今日はまた同じ西荻窪。

一体西荻窪はどうなっているんでしょうか。

ここを去る身(仕事の都合で引っ越します)ですが、10年近く住んだ場所ですし心配になります。


他人事でないのは、私自身が職を転々とし、不正規で明日をも知れぬ身だったからです。

私は就職氷河期時代の始まりの方、団塊ジュニアで人数も多ければ仕事もない、そんな時代の生まれです。

私が大学に入って1年くらいでバブルがはじけました。

すぐ就職するつもりはなかったものの、一度乗り遅れただけでなく、まだ仕事が見つかりそうな30代を自分探しに費やしてしまい、どうにか40手前で正規の仕事に就いたもののそれを10年で辞め(コロナをきっかけとした自分探しです)、再び無職に。

年齢、コロナというダブルパンチで腐っていましたが、どうにか50で再び正規の身となりました。


それは、お前自身の問題だろ、まともに就職活動もせず、あれは違うこれもどうかと大した身でもないくせにフラフラしてるから、そんなことになるんだろう。


新自由主義の方々はそういうでしょう。

新自由主義の方に、どのような人がいるのか、正確なところはわかりません。

  1. 仕事バリバリしてそれなりの自負と稼ぎがあって、そうでない人に苛ついているパターン →自分は意識高く努力してきて今がある、サボっている奴らになんで自分が稼いだ金を回されなきゃいけないのか
  2. 仕事はあるけれど非正規などで収入は上がらぬままなのに物価は上昇で辛い →自分は身を粉にして毎日あくせく働いてどうにか生活している、生活にゆとりも楽しみもないが、誰の世話にもならず自分の働きで生活していることだけは誇り。自分はそうやって頑張っているのにさぼって働かずにいる奴らが許せない
私が思うにこんなところではないでしょうか。
私は新自由主義者達が苦手です。
自分の能力にそこまで盲信できることもないですし、だからって楽しくもない仕事をとにかく自分の力で生活しなきゃだから続けることもできません。
これでも、誰にも頼らず自分で生活したい気持ちは強いです。なのにそれでも辞めたりするのは、それなりに自負があるからだと思いますし、危機的状況は何度もありましたが、どうにかなっています。

人間は共通するところも多いですが、昨今言われるように多様性も豊かです。
それは、同じ人たちばかりだったらそれで失敗した時に取り返しがつかない、具体的にいうと、何かが起きた時にはそれまで不遇だった人が能力を発揮して助けられることがある、
といったところだと思います。
偏差が大きいところに、人間が今なんのかんので繁栄している要因があると思います。

ですので、その保険をかけている、と新自由主義の方々には思っていただけないでしょうか。
あまり思えないですよね、自分がその恩恵を必ず受けるということはないですから。
しかし、1、の人は貯金もあって自分の人生はどうにかなるかもですが、2の人はいつ働けなくなるかわかりません。
そうすると、結局自分が糾弾していた人と同じ身になってしまいます。

今、働けていない人は別にサボろうとかそういうことではないのです。
バリバリ稼いでいる人にいいたいのは、あなたがそうなったのはたまたま運が良く自分に適合した時代に生まれたからだよ、ということです。自分のラッキーさをありがたく思い、それを還元するくらいの気持ちにまでならないまでも、そうでない人を見下す必要はないのでは?と思います。
頑張って働いている人には、そこまで身を削って頑張っても、それで体を壊してしまえばどうしようもなくなりますよ、ということです。

西荻窪の人身事故は、金銭的に生活に困って、ということではないのかもしれません。
しかしどちらにせよ、生きていることに困っていた事には違いないです。
そして私は氷河期世代を地で行く人間です。
ストレートに生きていくことができないですが、迷いつつ生きることで経験できることもありました。それがいいとは言い切れないです。何度も「なぜ学部卒業時にちゃんと就職しなかったのか」と思いました(バブルははじけていましたが仕事はないわけではありませんでした)。
しかし、おそらくそれができるタイプではなかったですし、それはそれで仕方ないと。
と思えるのは、今どうにか正規の仕事にありつけたからだと思います。
なぜ50にもなってそうなれたのか、ただのラッキーとしか思えません。年収は下がっていますが、仕事はやりがいがあってよかったと思っています。
そういうラッキーに恵まれたのは、私が迷いながらも自分の思うところに正直に生きてきて、そういう生き方がありな世の中になったからかな?と思っています。
そもそも前職を辞めたのは、「風の時代」というワードに乗っちゃってでした。
その後に「何が風の時代だ」と後悔しましたが、今落ち着いて(風の時代にそぐわないですが、それも私らしいというか)、やっぱり辞めてよかった、あのまま働いていても気持ちが腐っていくだけだった、と思います。

つまり何がいいたいかというと、それぞれの人生を生きるしかない、ということです。
だから、あまり資本主義に乗れない人たちを糾弾するのは辞めてもらって