アーティゾン美術館で開催中のブランクーシ展を見に行った。


ブランクーシは、作品が多いのだろうか、美術館に行くと比較的よく見る。

見るといつも「いいなぁ」と思う。

なので、いいことはわかっていたが、ブランクーシだけの展示ははじめてで、どんなものかな?と出かけてみた。


まず、アーティゾンは地の利が良い。

アーティゾンという名前になってからは、外観もスタイリッシュになった。

企業の美術館なので利益を求めてはいないのだろう、企画の割には比較的リーズナブルなのだが、なんでか知らないがいつも空いている。

こんなに地の利が良いのになぜだろうか‥上野辺りの美術館はいつも混んでいるのに。

まあ、企画がそこまでキャッチーではないのだがそれにしても‥。


で、行きました。

この地の利を活かし?外国人観光客が多くなっていた。

半分弱は外国人といった様子。

それを除いた日本人の鑑賞者は、以前と同じくらいの人数のよう。




久しぶりに美術館に行くと、入口から見える作品で感動してしまうことが、私にはよくある。

もちろんその作品が良い場合なのだが、特に思いがけずよい時。いいと思って行っているのだが、期待と違った良さを目にすると驚いて感極まってしまう。


いつも山に行き、自然の中での感動をメインに生きているが、久しぶりに人間の技を駆使し、美しさを追求してデザインされた美術館の統制された空間に身を置いて、アーティストたちの渾身の作品群を見ると、「こういう人工が極まったものも美しいな〜」と感動する。

作家たちが苦心して自分が伝えたい何かを表現し、とくに初期の、まだスタイルを模索中の時の作品は、伝えたいことの情熱がかえって強く感じられてときめいてしまう。

やはり、後年スタイルが定まってしまうと、その定型でものを作るので、作品の熱意は減ってしまうように思う。


入口すぐにあったブランクーシの初期の作品が、すごく良かった。

私が知っているブランクーシ節の作品たちとはまったく違っていて、でも後年の削ぎ落とす方向のクールな感じがすでにあった。


今回はじめて知ったのだが、ブランクーシはロダンの工房に弟子入してすぐ辞めたとのことだった。まったく作風が違うから、まさかそうな接点があるとは思っていなかった。

初期の作品を見ると、なるほど。

展示されていた「苦しみ」という作品を見てロダンがブランクーシに声をかけたそうだが、リアリティを追求するロダンが注目するのもうなずける、写実的な作品だった。




「苦しみ」を見事に表現する身体のねじり、ただ表情は穏やかで、苦しんでいることは感じさせない。

この、「苦しみ、なんだから徹底的に苦しそうにしよう」と思わないところがブランクーシだな、と感じた。

体のねじりでそれを表現すれば十分、表情やゴツゴツの仕上げなどでも苦しさを表すのは、too muchだ、といったところ。

ここに、ヨーロッパの中心ではなく東側に位置するルーマニア出身の、東洋味を感じる。

西洋ど真ん中だと、テーマに即してわかりやすく表現することがよし、とされるように私は思う。

でも、東洋人の少なくとも私は、そんなにやりすぎなくても‥と思ってしまう。


ポーランドで教会に行ったが(ポーランドは旧東ヨーロッパといわれるかもしれないが、実際には北にあるだけで東洋←アジア、に隣接してはいない、カトリック勢力強いところです)、キリストの受難が「これでもか」というくらい、像や絵などで表現されていて、

「みんな、自分が信仰している神様がこんなに苦しんでいていいんだ‥。自分たちのために苦しんでくれている、というのにグッとくるんだろうけど、それってすごいな」というのが正直な気持ちだ。


仏様なら、阿修羅など怒りを表現するものもあるが、多くは穏やかで、やや微笑んでるかも?くらいの顔つきだ。

文化の違いだと思うが、こういった表現の方が私的にはとてもしっくりくる。


それと同じで、ロダンは当時は異端と言われたかもしれないが、根は西洋ど真ん中の王道で、ドラマティックな表現、人間の色々な感情を引きずり出そうとする表現をしているのに対し、ブランクーシはわかりやすいドラマティックというよりは、そこから離れていく、抽象に向かっていくというか、削ぎ落とされた表現で、人間の情動とは違うもの、せっかく彫刻なのだから形の面白さを表現したい、という感じがある。

そういった志向性の違いが根本にあるので、ブランクーシがすぐにロダンの下を去ったのは、それは正解だったな、と思う。

短い間でもそこにいたことで、逆に自分の表現したことがはっきりしたのだろう。


そこからは、細かい表現はどんどん省略していって、それで残る形で勝負していった感じが面白い。

それが結局アフリカの彫刻などに繋がる感じ、真似もしているのだろうが‥でも、ルーマニアという、東洋との境目のようなところ出身だからできる表現だという気がする。


ただ、私はこれまで知っていたような、スタイルが決まってからのブランクーシのつるっとした作品よりも何よりも、入口一番はじめにあった初期の作品に最も心が奪われた。




「プライド」という作品で、少女の頭部の像だ。少女の愛らしさを表現するのではなく、きりっとした感じで前を見据えているように見えてその目は虚ろだったりする。

気位は高いもののまだ人間的成熟はなく、形だけの自負であることを表現しているのかもしれないが、単に感情を廃した表現を好んでいるからというだけかもしれないとも思うが、どちらにせよ、その虚無な感じが美しくて、とても心を動かされた。


後はブランクーシ節の作品たちで、どれもよいものの、どこかの美術館で他の作家の作品に紛れて何点かある時は「おっ」と思っても、単独でそればかり見るとそれはそれでお腹いっぱいになる感じもある。

同じスタイルが続くとやはりそういう印象があった。


私自身は、長生きしたとしてもすでに人生折り返しに入っているので、あまりこんなことを言いたくはないが、やはり若い頃の作品はいい。

まだ何の名もなしていなくて、これからどうなるんだろうという迷いの中、意欲だけは高く、これから名声を得たいのか、自分なりの芸術を極めたいのか、とにかく何かを生み出したいという気持ちはあって、どうにかしてそれを表現しようとしている、そういう頃の作品が好きだ。

何かへの純粋な渇望とか萌芽のようなもの、それが自分の心を揺さぶるのだと、ブランクーシの初期の作品を見て、改めて感じた。