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日本の歴史とヨーロッパの歴史をライフワークにして

2型糖尿病のアラフィフ専業主婦です。

ヨーロッパの歴史、とくにイギリス、フランス、イタリア、オーストリアの歴史やお城、貴族の館について書いています。

 

 

 

 

 

いつも当ブログにお越し頂きありがとうございます!

 

 

今年もはや11月になり、ようやく秋らしいと言うか冬のような寒さになってきましたねイチョウ

 

私事ではありますが今月から仕事を始めブログの更新も中々できなくなってしまいましたが、これからもよろしくお付き合いのほどをお願い致しますビックリマーク

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、先週の日曜日に放送されたNHKの大河ドラマ「どうする家康」ではあの有名な「関ヶ原の戦い」でした。

 

私は20年以上前に大河ドラマで放送された「葵徳川3代」を観ておおはまりし、関ヶ原にはもう何回も行っていますが(別になにもなく、史跡にはなっていますがただの畑地ですあせる

 

 

その「葵徳川3代」では、家康役は、故津川雅彦さんで私にとっての家康は津川さんなのです。

 

松潤の家康も悪くはないですが、少しかっこよすぎかなと思います(笑)

 

 

ここからは、関ヶ原の戦いの私の考察になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成が率いる東軍と西軍が激突した、日本史上最大の合戦で、この合戦の結果、家康は天下統一の道をひらきました。

 

家康は、上方で三成方が挙兵したと知ると、上杉氏討伐を中止して江戸に帰りました。

 

しかし、江戸に帰ってからも、すぐに西上しなく、その理由は2つあります。

 

 

1つは、会津の上杉景勝を警戒していたからで、上杉氏は家康の最大の敵でした。

 

 

もう1つは、西上中の豊臣恩顧の諸将の動向を見極めるためで、豊臣恩顧の諸将は、家康方についていましたが、本当に家康に忠誠を誓っていたのかどうかは、わかりませんでした。

 

 

その中でも、小早川秀秋は、家康と内応を約していましたが、合戦が始まっても秀秋は動きませんでした。

 

 

そこで、家康は、秀秋に鉄砲を打ちかけて、内応を促し、これが問鉄砲と呼ばれる場面です。

 

 

問鉄砲に驚いた秀秋は、西軍の大谷吉継に攻撃を開始し、これが西軍の敗北のきっかけとなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、最近の研究では、問鉄砲はなかったという説もあり、その説によると小早川秀秋は、開戦と同時に裏切って西軍に攻撃を開始したのです。

 

 

そのため、関ヶ原の戦いは、早朝から始まって、正午頃には終わってしまったのです。

 

この説が正しいとすれば、関ヶ原の戦いは、ドラマよりももっと短くて激しい戦いだったということになりますね。

 

 

私は今でも関ヶ原の戦いと聞くと戦いの情景が目に浮かび、ドキドキしてしまいます。