エリザベート・バートリーの裁判記録1 | 日本の歴史とヨーロッパの歴史をライフワークにして

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2型糖尿病のアラフィフ専業主婦です。

ヨーロッパの歴史、とくにイギリス、フランス、イタリア、オーストリアの歴史やお城、貴族の館について書いています。

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今回は、血の伯爵夫人エリザベスバートリーの裁判記録についてです。

 

エリザベート・バートリー自体は、貴族ですので裁判には本人は出頭しませんでしたが、その事件に関わった召使の裁判記録は残っています。

 

長い記録ですので被告人1人ずつ、2回にわけて書いていきたいと思います。

 

かなり残酷な記録ですので、残酷さが嫌いな方はここからは読まないでくださいね。

 

私がこの裁判記録を描こうと思いましたのは、興味ではなくこれからもこのような残酷な事件が起きないように願ってのことです。

 

1611年1月2日の訊問(抜粋)

 

高地ハンガリー大宮中伯ジョルジュ・ツルゾーの城にて

 

20人の裁判官と13人の証人が出廷。

 

被告 ウユヴァリ・ヤーノシュ 通称フィツコ

 

   ヨー・イロ―ナ 乳母

 

   ドロティア・センテス  通称ドルコ

 

   カタラン・ベニエスキー 洗濯女

 

 

第一被告人  フィツコ

 

質問1、どのくらいの期間、伯爵夫人の城で働いていたのか?

 

16年です。

1594年にマルタン・チェイティに強制的に連れてこられました。

 

質問2、お前は何人の女性を殺したか?

 

女性のことは知りません。

若い娘なら37人、殺害しました。

宮中伯がプレスブルグにおられるとき、私の女主人(エリザベスバートリー)は、そのうちの5人を穴に埋めさせました。

 

そして他の2人を軒下の小庭に、他の2人は夜、ポドリエの教会の下に。

この最後の2人はチェイテの城から運ばれました。

 

彼女らを殺害したのは、ドルコです。

 

質問3、お前は誰を殺害したのか。そして彼女らはどこの出身か。

 

存じません

 

質問4、誰が彼女らを連れてきたのか?

 

ドルコともう1人が彼女らを探しに行きました。

ドルコらは、娘たちに良い奉公口があるからついてくるようにと言ったのです。

 

ある村から来た娘の1人などは、1か月もかかって到着し、着いてすぐ殺害されました。

 

時にさまざまな村の女たちが、若い娘を提供するため、ぐるになりました。

 

彼女らのうちの1人は、他の娘を連れてくるのを拒否したので自分の娘さえも殺害されました。

 

私はといえば、私は6回、ドルコと一緒に娘探しに行きました。

 

殺しではなく、埋葬のほうを受け持つ特別の女が1人いました。

 

ヤン・バルソヴ二―の妻は、タプランファルヴ方面に召使を雇いに行きました。

 

そして、サルヴァ―ルのクロアチアという女、サライの家の前に住む、マッティアス・オエトヴォスの妻も、ザボの妻も娘たちを連れてきまたし、殺害されると知りつつ自分の娘も連れてきました。

 

カータは連れてきませんが、ドルコが殺害した娘たちをみな埋めました。

 

質問5、どのような拷問を用いたのか?

 

彼女らは、ウィーン製の縄で娘たちの手と腕をきつく縛り、亡くなるまで打ちました。

娘たちの皮膚が炭のように黒くなり、その肌が裂けるまで。

 

1人の娘は、亡くなるまでに2回目以上の鞭打ちに耐えました。

ドルコが娘たちの指を1本、1本やっとこで切りました。

 

それから鋏で静脈をさしました。

 

 

 

書いていて本当に辛くなってきましたので、質問はあと9問ありますが、今回はこのへんで終わりにします。

 

400年前に実際にこういう事件があったということが信じられません。