雲がモクモク出てたら雷雲がしてイキナリの土砂降り。

こりゃヨイナ〜と思ってたら上がってしまったな。

チーとも涼しくならない雨でした(>_<)

さて、終戦の日と申しましても私メは戦後生まれの団塊の世代。

中学に入学した時はに人数が多くて、1クラス56人の28組ありましたな~。

ちなみに2年生は22組の3年生は20組。

机の配置なん前は教壇ギリギリの後ろは黒板スレスレ・・・。

休み時間のグラウンドは正月の繁華街状態の様相でしたね。

さて。

戦争体験は無いですが、亡き母親は兄を2人亡くしてますね。

何れも昭和19年の召集で、1人は台湾沖とあと1人はフィリピン沖ですね。

輸送船が米軍潜水艦に依って攻撃されたとか。

田舎の子沢山で、年が離れてた事もあって可愛がられてたそうです。

叔母さんの旦那は体格が良い事もあっての近衛師団で初年兵。

あの日本の一番長い日で以って分けの分からぬ間に上官の命で実弾渡されて宮城を守ったと。

生前に『かなわんな〜同じ兵隊を敵に回すのかいな』と。

まあ、玉音放送の後に上官から『帰れ』と言われて飛んで帰って来たらしいですね。

其のころの親父は福井の山持ちの3男坊。

焼け野原に材木持って行ったら儲かると神戸に・・・。

そりゃ儲けたらしいけれど商売が下手で私メが小1の時にはスッカラカン。

まあ、焼野原の商売はヤ印の付き合いもあったらしいのでブローニングとか危ないモノを持ってましたね。

私メが生まれる前に母親がギャンギャン言って警察署に提出したらしいね。

ブローニングを使う用があったら私メは此の世に生を受けて無いかも。