宇都宮城 | 投資 播種 目を出せ! 植木屋のブログ

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戊辰戦争の際に焼失し、都市開発が行われたため、遺構はほとんど残っていないが、本丸の一部の土塁が現存し、本丸の土塁、堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元された。
今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画がある。


清明台(せいめいだい)
北西部の櫓で、2階瓦葺き、土累は他よりも高く天守閣の役割を果たしていとと言われる。



清明台から二荒山神社(北方向)眺める



富士見櫓
土累の南西部にあった櫓





本丸模型の手前が復元された部分。

清明台から富士見櫓を見る


富士見櫓から清明台を見る


本丸土累内部


築城年代は平安時代に遡る。
藤原宗円(宇都宮氏の祖)が築城したと言われる。
もともと宇都宮には宇都宮大明神(二荒山神社)が鎮座し、宗円は前九年の役に際して源頼義・源義家に伴われて奥州遠征に赴き、その功によって当社座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体の支配権を与えられた。
以来、鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、宇都宮城は宇都宮氏の居城(居館)となり、北関東支配の拠点となった。

戦国時代後期には後北条氏や家臣である壬生氏や皆川氏の侵攻を受け一時は占拠されたこともあったが、小田原征伐後には、秀吉から所領を安堵され、後北条氏の侵攻を防ぐために多気山城に移していた居城を元の宇都宮城に戻すように命じられる。
その後羽柴姓を授かるなど、秀吉との仲は良好であったが、慶長2年(1597年)に突如改易。

宇都宮氏改易後の慶長3年(1598年)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。

関ヶ原後は、その功により奥平家昌が10万石で入り、
さらに元和5年(1619年)、徳川家康の懐刀と言われた「本多正純」が15万5千石で宇都宮に入り、
縄張りを拡張して新たな郭を設け、城郭周囲を掘削し幾重の水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。
本田正純は宇都宮城を近世城郭とする一方、城下の日光街道と奥州街道を整備し、城内に将軍宿泊所となる本丸御殿を建設するなど、日光社参に関する設備向上を促進した。

本田正純の意に反して宇都宮城改修にまつわる正純謀反の噂が流布され、元和8年(1622年)に正純は改易された(宇都宮城釣天井事件)。

宇都宮城釣天井事件(うつのみやじょうつりてんじょうじけん)
宇都宮城に吊り天井を仕掛けて第2代将軍徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を掛けられた事件。
ただし、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因によるものとされる。

先代よりの忠勤に免じ改めて出羽由利郡に5万5000石を与えると命じたが、
謀反に身に覚えがない正純が固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純親子の身柄は久保田藩主佐竹義宣に預けられ、出羽横手への流罪とされた。
後に正純は1000石の捨て扶持を与えられ、寛永13年(1637年)3月、正純は73歳で秋田 横手城の一角で寂しく生涯を終えた。

「日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく」
正純父子は、牢にこそ入らなかったものの、逃亡防止のために住居をすべて板戸で囲い過酷な生活であったといわれる。

本田正純の逸話に、
石田三成の身柄を預かったとき、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる。


正純によって再編された都市基盤は近代都市・宇都宮市の礎となったその後は、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わり、江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で治め、幕末を迎える。