お昼すぎ、うとうとしてたわけじゃないのに、なんか揺れている気分。
大阪でもハッキリと判るくらいに大きく揺れ続けた。
気になってテレビを点けて速報を見る。
海からの大きなうねりが、岩手県のどっかしらの海岸を浸食し、木材とたくさんの車が勢いにまかせて蠢いている。
これがYouTUBEの動画とかではなく、リアルタイムに日本で起きている事なのだと改めて思う。
インターネットっていうのは、ものすごく平和で、こういう天災なんかが起きる事はない。ないのだが、それを伝えたいと思った時に手段はたくさんある。たとえばこういうブログもそう、ツイッターのようなつぶやき系もそうだし、ミクシィやフェイスブックなんて方法もある。
みんなが世の中で起きていることを文字として表現することができる時代なのである。
そんな事を考えながら、ふと思ったことがある。
天災の規模にしても、事件の悲惨さにしても、その激しさ、その凄まじさ、その場の空気、ニオイ、気配、感じる事のすべてを客観的に表現することができるのだろうか、と。
すごい揺れたー!とか、
めっちゃ怖かったー!とか、
あいつサイアクー!とか、
この判断基準はあくまでもその人たちであり、その人たちのまわりに居る人たちであり、それはやはりどうしても関係のない人たちからすれば、他人事である。なので、酷い事だろうが、悲しい事だろうが、一定の物差しではなく、人という媒介を経由してしまうので、正しいサイズ感がなくなってしまう。
テレビの映像を観ていると、本当にひどいなあ、このあたりに住んでいる人大丈夫なのかなあ、なんて思う事はあるけれど、その気持ちは、なんだかそこでストップしてしまっているような感覚。
募金とか、災害救助とか、被害を受けた人たちに差し伸べる手はあるのだろうが、これが文字と映像の世界になってしまうと途端にうさんくさくなり、他人事になり、なんだか差し伸べる手が弱々しくなってしまう気がする。
誰かが言った。
今はグーグルマップだの、アースだのがあったり、あちこちのすばらしい写真がネットにあるので、そこに行かなくても、十分であり、満足している。と。
その場所にしかない空気、ニオイ、人の気配、、、、、、、そういうのを感じられなくなった未来の人間たちは、一体どこに向かうんだろう。
大阪でもハッキリと判るくらいに大きく揺れ続けた。
気になってテレビを点けて速報を見る。
海からの大きなうねりが、岩手県のどっかしらの海岸を浸食し、木材とたくさんの車が勢いにまかせて蠢いている。
これがYouTUBEの動画とかではなく、リアルタイムに日本で起きている事なのだと改めて思う。
インターネットっていうのは、ものすごく平和で、こういう天災なんかが起きる事はない。ないのだが、それを伝えたいと思った時に手段はたくさんある。たとえばこういうブログもそう、ツイッターのようなつぶやき系もそうだし、ミクシィやフェイスブックなんて方法もある。
みんなが世の中で起きていることを文字として表現することができる時代なのである。
そんな事を考えながら、ふと思ったことがある。
天災の規模にしても、事件の悲惨さにしても、その激しさ、その凄まじさ、その場の空気、ニオイ、気配、感じる事のすべてを客観的に表現することができるのだろうか、と。
すごい揺れたー!とか、
めっちゃ怖かったー!とか、
あいつサイアクー!とか、
この判断基準はあくまでもその人たちであり、その人たちのまわりに居る人たちであり、それはやはりどうしても関係のない人たちからすれば、他人事である。なので、酷い事だろうが、悲しい事だろうが、一定の物差しではなく、人という媒介を経由してしまうので、正しいサイズ感がなくなってしまう。
テレビの映像を観ていると、本当にひどいなあ、このあたりに住んでいる人大丈夫なのかなあ、なんて思う事はあるけれど、その気持ちは、なんだかそこでストップしてしまっているような感覚。
募金とか、災害救助とか、被害を受けた人たちに差し伸べる手はあるのだろうが、これが文字と映像の世界になってしまうと途端にうさんくさくなり、他人事になり、なんだか差し伸べる手が弱々しくなってしまう気がする。
誰かが言った。
今はグーグルマップだの、アースだのがあったり、あちこちのすばらしい写真がネットにあるので、そこに行かなくても、十分であり、満足している。と。
その場所にしかない空気、ニオイ、人の気配、、、、、、、そういうのを感じられなくなった未来の人間たちは、一体どこに向かうんだろう。
