人間の行動はあることによって決まります。
それは何かというと損得勘定です。
自分にとって損か得か?
より得するものはどれか?
一番、損をしないものはどれか?
皆さんが何かを選択する時、必ず最善と思うものを選んでいるはずです。
最善のものが選べる状況でわざわざ違うものを選ぶ人などいないと思います。
人の価値観がそれぞれ違うため損得勘定の内容に違いはありますが意識する、しないに関わらず人間の行動原理には必ず、この損得勘定があります。
日月神示には算盤を捨てよと書かれています。
算盤とは先程述べた損得勘定のことです。
ですが人間はより良いものを追求することで進歩してきました。
これは人間にしか出来ない素晴らしい能力です。
それを捨てろということは損得勘定は悪ということでしょうか?
私が師匠から教わったのはこうです。
『損得勘定をなくすためには真の損得勘定を学べば良い』と。
人間の持つ損得勘定とは自分だけの損得しか考えない我善しです。
故に自分が得ることばかりに執着します。
これは周りのことなど無視して、ひたすら奪うことを意味します。
お釈迦様の説いた縁起では行為は近くのものから遠くのものへ影響を与え合いながら、巡り巡って元に戻ってくると言われています。
そして以前書いた『与えることはいただくこと』の記事を覚えている方もいるかと思います。
これも縁起と意味は同じです。
『与えることはいただくこと』を逆側から見ると得ることは失うことになります。
得ることに執着する人は自分で失うことをしておきながら、得られないことに不満を言っているんです。
私の師匠は言います。
『得ようとしない者が得られるんです』
『一切を欲するなら一切を捨てるんです』
以下は師匠から損得勘定について教えられた時のお話です。
【師匠の教え①】
人が自他の区別なく生きるためには自らの心の中にある問題が邪魔になります。
自他の区別なく一切として生きることが悟りです。
一切として生きると言うことは、それは自らの心の問題を解決したことを意味するからです。
だから自らの心の問題を解決して一切を愛して行きなさい。
世界の人が一切を愛した時、世界は一家となります。
悪も愛し、善も愛しなさい。
それが唯一の善なる道です。
大いなる知恵をもって、自分には何が必要か損得勘定をしなさい。
知恵の道とはエゴを捨てるのではなく、納得させる道です。
エゴとは納得できない時に現れる働きです。
だから皆さんが納得するとエゴはその働きを失います。
だから自分に一体何が必要なのか大いなる知恵を持って損得勘定をしなさい。
その損得勘定が終いには損得勘定を失わせるから大丈夫です。
それ自体が邪魔だとエゴは気づくからね。
エゴとは元々神から現れた神の働きなんだよ。
それが無明によりエゴとして働いている。
大いなる知恵をもって無明を晴らすとエゴはエゴとしての働きを止め、神の中に消え去るのです。
元々神から現れたものは神の中に戻るのが道理です。
【師匠の教え②】
内面的一を体現した者にとって人の為がないんです。
だから人の為がなくなるほど世界の為に働けるが正しい。
これでも本当は正しくありません。
本当は内面的一を実現したものにとって何の為がないんです。
人の為とか世界の為と言う、為とは人の弾く算盤であって、算盤があると言うことはまだ心が汚れていると言うことなんです。
算盤を持たない生き方が惟神なんです。
でもこれでは人はわからないから、自他を区別せずに生きなさいと言うわけです。
または何が損か得かを教えるわけです。
損得勘定をなくすために損得勘定を教えるんです。
為のない生き方を教えるために為を教えているんです。
分離が消えたら為は消え去るからです。
まだ為である内はそれは汚れです。
なすものとなされるものがある間はまだ不浄なんです。
確かに正しく進んでいれば愛が深くなり、他人に親切になるがそう言う思いは自我の餌にしかなりません。
なす自分となされる他人があると言うことを壊して行くんだ。
自分が親切になったと言う思いを壊すんです。
それを洗濯または身魂磨きと言うんですよ。
絶え間なく続く、自他を分けて見ると言う分別が自と他の間に境界を生み出し続けているんです。
一を体験したければ分けるな。
分けなければ自然に壊れます。
これは自由ではないと言う視点です。
両方の視点を常に持ちなさい。
俊和さんが自分と呼ぶのもは神なんだよ。
神と言うものは上から見ると人、下から見ると神なんです。
俊和さん自身が貴方の内側の世界の神なんです。
外から見ると人です。
だから神は人と同じ姿をしていると言われるんです。
どこの世界の神も自分が神だとは気づいていない。
だから世界に自我神が存在するんです。
三千世界の人が全て神になることを岩戸開きと言います。
生き神だらけになるんです。
人が上の神と一体になるんです。
この地上でだけ起きることではないんです。
分かれ出た神は、神すら改心する必要があるんです。