40帖『御法(みのり)』

法華経千部の供養、紫の上は明石の中宮と花散里にそれとなく別れを告げる歌を贈る、巻名はその歌に拠る

《和歌》「絶えぬべき 御法ながらぞ 頼まるる 世々にと結ぶ 中の契りを」(紫の上)

 (もうこれで、私がこの世で催す法会は最後と存じますが、この法会の結縁によって生々世々結ばれたあなたとのご縁が頼もしく思われます)

 

◇光源氏51歳◇

<物語の流れ>

   紫の上(43歳)→長く病に伏して死期を悟り、春、自ら用意した法華経千部の供養

→二条院にて見舞いに訪れた明石の中宮と匂(におう)の宮(明石の中宮の子、5歳)に別れを告げる

 

<二条院の法華経の供養>

死期を悟った紫の上は、自ら写経した法華経千部の供養を住んでいる二条院で盛大に行なう。

  「法華経を わが得しことは 薪こり 菜摘み水汲み 仕へてぞ得し」<『拾遺集』巻二十哀傷、大僧正行基>

    ※法華八講で五巻を講ずる日に参集の僧俗がこの句を唱えて行道する。

 

《和歌》「惜しからぬ この身ながらも かぎりとて 薪尽きなむ ことの悲しさ」(紫の上)

 (惜しくないこの身と存じながらも、これを最後として薪の尽きてしまうことが悲しくございます)

 

<書き出し>

「紫の上、いたうわづらひたまひし御ここちののち、いとあつしくなりたまひて、そこはかとなくなやみわたりたまふこと久しくなりぬ。いとおどろおどろしうはあらねど、年月重なれば、たのもしげなく、いとどあえかになりまさりたまへるを、院の思ほし嘆くこと限りなし。しばしにても後(おく)れきこえたまはむことをば、いみじかるべくおぼし、みづからの御ここちには、この世に飽(あ)かぬことなく、うしろめたきほだしだにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき御命とも思されぬを、年ごろの御契りかけ離れ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れぬ御心のうちにも、ものあはれにおぼされける。後の世のためにと、尊きことどもを多くせさせたまひつつ、いかでなほ本意(ほい)あるさまになりて、しばしもかかづらはむ命のほどは、行ひをまぎれなくと、たゆみなくおぼしのたまへど、さらに許しきこえたまはず。」

 

 

 (紫の上は、ひどく患われた御心労の後、ずいぶんと弱られて、どこが悪いということでもなく、気分のすぐれられない日が続きました。取り立ててひどい病状というのではないものの、年月を重ねても回復の兆しもなく、いよいよ弱々しくなられてゆくのを、院(六条院光源氏)の思い嘆くこと限りありません。たとえ僅かでも後に残されてしまわれるのを、とても辛いことと思われて、自ら(紫の上)の御気持ちでは、この世に不足なことはなく、気になるような綱(子ども)でさえもあるということではない身なので、どうしてもこの世に留めたい御命とも思われないので、長年連れ添った御契りを断ち切って、(光源氏を)思い嘆かせられることのみを、(紫の上は)人知れず御心の内に、とてもあわれに思われておりました。後の世のためと、尊い仏事を多くなさりあそばしながら、「なんとか、やはり本意(出家という本懐)を遂げて、少しでもこの世に関わり合うであろう命のある間は、仏道修行を怠りなくと、絶えずお考えを述べられますが(光源氏は)どうしてもお許しにはなりません。)

 

 ※「あえかなり」は、形容動詞{なら/なり・に/なり/なる/なれ/なれ}、弱々しい、か弱い、繊細である、の意

 ※「(絆)ほだし」は、馬を繋ぐ綱のこと、転じて、束縛するもの、妨げ、の意

 

<生きゐても美しく死しても美しい紫の上の最期>

三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなども、うららかにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま、遠からず思ひやられて、ことなり。深き心もなき人さへ、罪を失ひつべし。薪こる讃嘆の声も、そこら集ひたる響き、おどろおどろしきを、うち休みて静まりたるほどだにあはれに思さるるを、まして、このころとなりては、何ごとにつけても、心細くのみ思し知る。明石の御方に、三の宮して、聞こえたまへる。

 

 (三月十日になり、桜の花盛り、空模様も、のどかで風情があり、仏が住むという国の有様も、遠くになく思われて、特別な状況です。深い信仰をもっていない人も、罪障を消すことができそうです。薪を拾って行道をする声も、大勢参集した人々の声も響き、重々しくあるのが、やがて途絶えて静かになったことさえ紫の上は哀れに思い、まして、この頃では何事も心細く感じられました。明石の方に、三の宮(匂宮)をお遣いにしてお手紙を差し上げられます。)

 

 ※夏、二条院にて見舞いに訪れた明石の中宮と匂(におう)の宮(明石の中宮の子、5歳)に

 「上は、御心のうちにおぼしめぐらすこと多かれど、さかしげに、亡からむのとなどのたまひ出づることもなし」としながらも、労わり深い人柄を示す思いを残す。

 明石の中宮に、

 「年ごろつかうまつり馴れたる人々の、ことなるよるべなういとほしげなる、『この人かの人、はべらずなりなむのちに、御心とどめて、尋ね思うほせ』」と

 匂(におう)の宮(明石の中宮の子、5歳)に

 「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花のをりをりに、心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむをりは、仏にもたてまつりたまへ」と

 →冬、明石の中宮に手を取られながら「消え果てたまひぬ」

 

《和歌》「おくと見る ほどぞはかなき ともすれば 風に乱るる 萩のうは露」(紫の上)

 (起きていると見えましてもはかない命、ややもすれば吹く風に乱れる萩の上の露とおなじことでございます)

 ※「おく」は「置く」、露の縁語

 

《和歌》「ややもせば 消えをあらそふ 露の世に 後れ先だつ ほど経ずもがな」(光源氏)

 (どうかすると先を争って消えていく露、その露にもひとしいはかない人の世に、せめて後れ先立つ間を置かず、一緒に消えたいものです)

 

《和歌》「秋風に しばしとまらぬ 露の世を たれか草葉の うへとのみ見む」(明石の中宮)

 (秋風にしばらくの間もとまらず散ってしまう露の命を、誰が草葉の上のことだけ思いましょう)

 ※吾が身も同じ。紫の上一人ではないと慰める気持ち。