画像(ウェブ、渡辺浮美生「森と水辺の光彩」から借用)

 

 敬語をあまり耳にしなくなって、昔はどのように使われていたのであろうかと敬語に興味を思ったことが、『源氏物語』を読み始める切っ掛けでございました。

 読み始めると、それぞれの巻(全54帖)が短編としてまとまっていて、短編を駅伝のように襷(たすき)を渡してつないでいく物語の展開に引き込まれていきました。文學の知識のない者が、辞書を片手に注釈書の力を借りながら読み進めること一年、『源氏物語』が、世に云われるように男女の性愛を描いただけの恋愛小説であるとか、光源氏は好色男(playboy)であるとか、とは全然思いませんでした。

 

 確かに、光源氏が浮気性であることは本文にも書かれてある通りですけれども、妻とするには身分の高い貴族の女より中流の女のほうが趣があるという話を聞いて、人妻の「空蝉」に手を出したり、義理の兄であり友人でもある人の愛人「夕顔」に手を出したり、没落貴族の鼻の赤い女「末摘花」、宮中の女御の妹「花散里」など、ほかにも名もない女人を口説くこと数知れずありますけれども、光源氏は大きな屋敷を構えて後、後ろ盾のない人をみな屋敷に引き取って、その後の面倒を見ることにするのでございますよ。当時、男であれ女であれ、貨幣経済は発達してなく,小規模の商売に携わる以外、資産のある貴族に頼って生きる術(すべ)以外になかったのですから、光源氏は己(おのれ)の立場を弁(わきま)えていたと言えるのではないでしょうか。

 

 恋愛小説であるのならば、この光源氏が死去した時点(第41帖、第42帖で光源氏が死去することが暗示されていますが、第42帖には本文はなく、死去した記述はありません)で終了しても、その趣旨は十分伝わるものと思うのでございます。

 『宇治十帖』に至る、さらに孫の代まで物語を続けているのは、「時の流れ」という無常を語るもの以外の何物でもないと思われるのでございます。

 源氏物語の中で、巻名のほか本文でも触れられる「橋」とは恋の意(人の「業」の現象)のことかもしれません。全編に流れる主題は、人には意志の及ばぬ「業」があり、唯物的にエネルギーが物であり、物が空間を作り、質量が空間を歪め重力を作るが如く、唯心的に「業」が「時」を作り、その「時」は世代を超えて続き、「時」が連なりゆくことで生じる「時の流れ」なのではないかと思うのでございます(古文からでなければ感じ得ぬ「業」を感じる)。

 

 ※本文を読み進めながら、前に書かれてあったことを忘れないようにメモ書きしておきました。これから順番に掲載していきます(粗筋ではありません)。