晴れ着(画像:ウェブより拾ひて借用、他意あらず)

 

おほかたの 晴れ着に添ふる 帯あれど

      斎(いは)ふはしなき 食(を)すあはれにや

                          孤雲野鶴 理生法師

 

 倭人(やまとびと)にとりて、食べ物を摘まむ、切る、分けるの使う箸(はし)は、倭(やまと)の文化の象徴であり、倭人の自然の恵みに対する畏敬の念、感謝の念を示す道具なのです。

 

 箸は、中国、朝鮮、ベトナムなどのアジア諸国でも使用されています。しかし、箸の置き方は日本とは異なりております。普通、それらの国々では、食事をする人に対してナイフやフォークのように縦に置かれているのです。

 

 食事をする人の手前に横置きにするのは日本だけかも知れません。なにゆゑに日本人は箸を手前に横置きにするのでしょうか。

 

 その理由は、難しきものではありません。

 古代、日本人には人の手によらず、人が触らずに動く物はすべて神の力によるものであると信じられておりました。

 陽が昇るのも、風が吹き水が流れるのも、また木々が生い茂り、花が咲き、鳥が飛び回り、動物が走り回るのも、すべて神々が手を貸し動かしているもの、あるいは、神々が姿を変えたもの、神々によって命を授けられたものと考えられていました。

 

 人は生き永らえるために、この自然界に有るものを食さなければなりません。生きて行くために他の命を奪わなければなりません。命とは、他の命を食さなければ生きて行けない宿命にあるわけです。

 人の命を生き永らえさせるためにその命を捧げてくれるものがあるとはいえ、その命はただ食べられるためにあるわけではありません。命は、それぞれその命をこの世にて楽しむために存在しているのですから。人は、その命を食するときに感謝しなければならない理由がここにあります。

 

 食事のときに、料理の前に横にして置かれた箸は、実は、世界を分ける「境界」を表わしているのです。

 人が生きている手前側の「現実の世界」と命を捧げて料理という姿に変わった物たちの「世界」(神聖なるものとして敬うべき世界)との境界線なのです。

 

 人が両手で箸を上げ、「いただきます。」と言って食事を始めるのは、その境界を取り除いてから、生きている者が聖なる領域に立ち入ることを意味しています。聖なる領域にある命を戴くためなのです。

 箸を手前に置いて、「ごちそうさまでございました。」と言って食事を終えるのは、食するために取り除いた境界を元に戻し、命を捧げてくれた物たちの領域を護るためなのです。

 

 他の数多くの命を戴いて生きている身なればこそ、人は皆、己(おのれ)の命を支えてくれる大自然の恵み(太陽、雨、風、水、海の物、山の物)に感謝しなければなりません。そして、人は皆、等しく大自然の恵みを受けて互いの命の営みを助け合う仕組みの中に一部分として存在していることを知らなければなりません。

 食するとは、ともに食する者同士を含め、食べ物となりし物も含めて、命を尊重し合うことに他ならないのです。

 

 箸には、このような倭人の心置き、心の証(あかし)である命あるものへの優しき思いが込められているのです。

 世界の多くの人々に知っていただきたく筆を執りたるしだいでございます。

 

祝ひ箸(画像:ウェブより拾ひて借用、他意あらず)