韓国や中国は、よく「歴史教育が」や「歴史を直視し」という。しかし、この歴史がどのような物かが問題である。例えば、適当につくった物語に「歴史」と名をあたえれば、その物語が正しいものになるわけでもない。

 同じように、ロシアは「(自国の)法律に従って正当に・・・」といって自らを正当化する。しかし、ロシアの法律は誰がどのような過程を経て作られたものかが問題である。例えば、独裁者が自己保身のための法律を事実上自分一人で決めて、「これが法律だ」と宣言してみたところで、内容に「客観的な」正当性が生じるわけでもない。

「歴史に基づいて・・・」や「(自国の)法律に従って・・・」などと叫んでみたところで、「歴史や法律であるならば、それは正しい」とはならないのである。言葉による単なるごまかし、言葉の罠であり、第三者や第三国は意味のない幼稚な「だまし」に引っかかってはいけない。「(証拠のある)事実」と「客観的・総合的な正義」のみによって歴史は作られる。感情や願望は、SNS上と政治の世界だけにしておき、学問(歴史)の世界に持ち込むべきではない。