教育委員会は、教員向けの講習などで、公営キャンブル(ボートレースや競輪などのギャンブル)やパチンコ(キャンブルではないため賭博罪に抵触せずに逮捕の心配なく遊べる)を悪く言う。はっきり言うと、「競馬やパチンコなどやるな、自己研鑽に励め」という考えである。
違法行為ならわかるが、ただの偏見によって権力を振りかざす時代錯誤のところもある。社会のイメージ云々という話ならば、違法行為でないのだから社会のイメージの方を変える努力をすればよい。本末転倒だろう。キャンブルやパチンコはお金を使いすぎて身を滅ぼすというのであれば、例えばデパートでいつもブランド物の買い物ばかりしすぎて貯金がなくなったからデパートは悪い所だとなってしまう。違法でない限り、あとはその人個人の性格や能力の問題だ。
教育の世界は閉鎖的である。社会の流れから10年は遅れている。夜の8~9時頃まで学校で仕事をし、若い教員は帰ってからも夜遅くまで翌日の授業の準備をする。事務や印刷、テストの丸付け、学年通信作り(家庭向け広報)の仕事は、土日に出勤して何とか終わらせるといった日々だ。もちろん残業手当などはない。仕事量は増え続け、校長は残業している教員を見ては褒める。これでは、だれも定時に帰れなくなるではないか(帰ったら、「努力しない悪者」になる)。
最近は、GIGAスクール構想で教員はICTの操作やそれを使った新たな指導法も習得しなければいけないが、それはいつやればよいというのだろうか。寝る時間がどんどん減っていく。教材研究の時間(翌日の授業6時間分の準備)も減ることで場当たり的な授業をこなすだけとなる。準備に追われて休み時間における子供への生活指導や個別対応(喧嘩やいじめの対応など)の時間も無くなり、ほおっておくことになる。すべて子供たちにかえっていくのである(子供たちが犠牲になっていく)。ちなみに、教員個人のお金と時間を使って、専門外の大学教授の筋違いの話を聞く「教員免許更新講習」(数年前に廃止)とは一体何だったのだろうか。安倍氏が教育にも関心を持ってしまい、それによって教員たちもさらに苦しめられていた。
私が校長であれば、授業研究や学校行事、校務分掌を削減し、会議を簡略化するなど教員たちの仕事量をできるだけ少なくする。そして、勤務時間が終わったら「ほどほどでよいから、そろそろ帰ってください」と言い、すぐに帰って地域のスポーツサークルに参加したり家族と過ごしたりするだろう。昔、東大教育学部の教授が、「自分や家族(の生活や人生)を犠牲にする教員は、教育者としてふさわしくない」といった趣旨の話をしていたことが思い出される。絶対にやらなければいけないことはやらないといけないが、校長はそれらについて費やす時間やレベルに上限を設け、その範囲内で教員たちに努力してもらうことが重要である。上限の設定なしでは、教員たちを無制限に働かせることにつながる。教員であろうと、仕事をするために生まれてきたのではない。
教員希望者が減るのは当然だと思う。今まで、教員の実態があまり公にならなかったから希望する学生がいただけであろう。実態を知らないで教員になった人たちも、休職や退職、そして過労死する人も結構いる。私の経験だけでも若くして亡くなった教員が2人いた。ヨーロッパの教員は事務仕事はほとんどなく、教員が15時頃に帰宅する国もあると聞いたことがある。
教員も社会人の一人である。日々の生活や一度しかない人生を犠牲にして頑張ることが美徳であるといった昭和の考えがいまだに残る教育公務員の世界も、コンプライアンスや働き方、(残業)手当などにおいて、早く一般企業並みになることを期待したい。まずは教員の実態を公にして、移民や専門家、マスコミなどの皆に「なんかおかしいぞ!」とわかってもらわなければ、改革に向けての議論も始まらない。