社会学者の宮台真司氏が退院し、コメントを述べていた。その中に、「自分のアンチ派の9割は今回の事件を非難していた。残りの1割はクズ中のクズだ」といったようなことを話していた。とても攻撃的で口が悪いので不可解に思い少し彼のことを調べてみたら、これまでも人のことをクズ呼ばわりしたりバカと言ったり、結構すごい発言がヒットした。

 クズ(屑)の意味を調べると、「いい部分を取ったあとの残りかす」「 役に立たない人のたとえ」などと出てくる。同じ人間に対して発する言葉ではない。そもそも誰にとっても役に立たないという人はいない。大学院修了(修士程度)を看板にした無責任コメンテーターや学者、弁護士なら許されるのだろうか。小・中学校で友達に対し、「クズ」と言ったらいじめにあたる暴言で、子供によっては言われて自殺する可能性もあるような言葉だ。

「言論の自由!言論の自由!」と叫びながら他人に暴言を吐いたり、一面的な理想論やへりくつを相手に突き付けて現実的に困っている人を追い込んだりしながら、相手をおこらせ、傷つけ、金を稼ぐ。そんなことが許されていいわけがない。「クズ」と言われた対象にあたる人々が怒り、言ってきた人をやめさせよう、こらしめようと思うことは自然の流れであろう。退院して最初の発言が、他人をクズ呼ばわりでは、クズと言われた対象にあたる人が、その日に彼を襲ってもおかしくはなかった。だって人間である自分をゴミのようにクズ扱いされたのだから。彼は、社会のためにも自分のためにも言動を改めたほうが良いと思う。

 プライドの高い傲慢なコメンテーターたちには、部分的な真実をもって一方的に強気の発言をして自己をえらく見せたり、言葉を操って困っている人々や一般市民をといつめたり、自分の価値観や経験、思によって相手や物事を断罪して人々を悲しませたりしていくことは、今回の事件を契機に今後は控えてもらいたいと願うのである。限度を超えた言葉や、自分が思った1つの論理を強い態度で感情的に言い続けて相手に押し付けようとすると、人は怒り攻撃してくる可能性があるということも理解したほうが良い。煽り専門(無意識であろうが)のコメンテーターたちだって、逆の立場であれば我慢ができずに「言葉の暴力」をふるうだろう。同じである。それからもう一つ、議論が活発になることと口喧嘩や激しい言葉ゲームは違うということも、力のない傲慢なコメンテーターたちには気づいてもらいたい。静かに建設的な言葉のやり取りをすればよいだけで、声を大きくしたり早口で攻め立てたりすることで、自己の正当性が高まるわけでもないだろう(相手を煙に巻き、視聴者を誤解させることはできるだろうが)。

 今回の事件は、暴言や強烈な批判を得意げに発するコメンテーターやそれらを(視聴率稼ぎのために)陰で支えるマスコミのあり方、そしてそれらと一般市民の関係(たとえ合法的でまっとうな非難をしてもすぐに「誹謗中傷だ」とマスコミやコメンテーターたちから攻められるいじめられ役)を見直す良い機会になったと思う。

 社会学者や国際政治学者、弁護士たちは専門外の単なる自分の思いなどマスコミで全国民に発信などしなくてよい。むしろ受け取る側は「専門家だから全て正しいことを言っているのだろう」といった誤解を与えることにもなる。専門家としての範疇を出ることなく、事実について自己の専門的立場で感情を入れずに客観的かつ総合的に分析したり、いくつかの可能性や視点を挙げるだけでよい。あとは国民が判断する。押し付けてはいけないし押し付ける必要もない。勝ち負けのある似非学会や裁判所ではないのだから。そもそも専門家としての肩書で出演している人が、範疇外のコロナや芸能問題、国民の行動などについて個人の意見を押し付けようと(強く主張)すること自体がナンセンスであろう(これは関わらせているテレビ局の問題であるが)。

 いずれにせよ、相手を怒らせることなく、怒ることなく、言葉の暴力や力の暴力を使うことなく、建設的な言葉のやり取りができるように皆が配慮することを忘れないようにしていかなければいけない。公開の口喧嘩を見て楽しむバラエティ番組ではないのだから。決して政治家とコメンテーターとマスコミが偉く絶対的ではないのだし、国民や警察がそのように育ててもいけない。

「力の暴力」よりひどい「言葉の暴力」もある。特に「言論の自由」を叫ぶ人は、それを盾に当事者の感情を無視して詭弁や暴言、部分的な真実を言い続けて相手を攻撃することを生業にしている人が多いように感じられる。私は「言論の自由」を興奮して叫ぶ人をいつも警戒している(真偽を見極めようと調べる)。立場の弱い人(政治家やマスコミ関係者以外ー権力も影響力もない人)が不利にならない社会を皆で作っていきたいものである。