社会学者の宮台真司氏が退院した。今週から言論活動を再開するという。
この事件に関し、慶応大学大学院を修了したロンブーの田村淳氏は「言論を封殺するようなかたちで首を切ったり頭を殴ったりすることが起き始めたとしたら、いよいよ何も言えなくなる」と、私の知る限りでは最も早く反応したコメンテーターだ。
「暴力は絶対にだめで、言葉なら何を言ってもよい」という考えがあるとしたら、それについて私は反対である。頭をバシッと1度たたいても何でもないし、人を一生苦しめたり自殺にまで追い込むほどの言葉や詭弁もある。言葉や討論、批判には、「力を用いた暴力」と同等かそれ以上の破壊力、攻撃力を持つものもある。
言論の自由とか言論封殺という言葉があるが、「言論」は立派でえらく素晴らしい神や水戸黄門の印籠ではない。むしろ、その逆のほうが多いだろう(人類全体を見ると、言論を用いる人に自己中や悪い人のほうが多いから)。
一般市民がネット上で批判を書き込むと、限度を超えた犯罪的な批判以外のすべての批判的書き込みに対して「誹謗中傷」という言葉に置き換えてコメンテーターやマスコミは一斉に批判する。「やめろ」と。自分たちが批判を述べて他人を傷つけているとしたら、そして多くの人が目にする全国放送のテレビを使って様々なことを批判しているとしたら、それは言動不一致でおかしなことである。
学者や弁護士、コメンテーターによるテレビなどでの「言葉の発信」が、力の暴力以上の攻撃性や殺傷能力を持つこともできるということは本人たちも自覚し、社会としては暴力はだめで言論(意見や批判など)はよいという認識は変えていくことが重要だと思う。
封殺しなければいけないような言論もある。田村氏は、自分も何も言えなくなると思っているのであれば、大学院修了後は力の暴力に匹敵するような言葉を発している自覚を持っているのではないだろうか。今回の事件を通し、炎上商法のような弁護士や学者たちは、これまで自分が話してきた詭弁や一面的な批判の言葉をいったん整理したほうが良いと思う。今回のような事件は二度と起きないことを願いたい。ちなみに、私は議論(話し合い)とは、「調整と感情のやり取り」と思っている。様々な要素が流動的で、様々な価値観と道徳観があり、様々な生活レベルがあり、無限に近い要素や視点がある中で、自分の知識と経験によって考えついた独自の意見を相手に押し付けることは不可能に近いことだろう(詭弁を使って相手を混乱させ黙らせることはできるだろうが)。