ひろゆき氏や元大阪府知事の橋下氏は、論破王とか弁舌が巧みだと言われているらしい。彼らの議論や意見を聞いていると、変わることのない強固な自分の基準や価値観、思いというものがあり、それに基づいて物事を○か×か「振り分け」をしているに過ぎないように見える。理由(主張の根拠)を話す時も、そのように振り分けた理由を説明するわけで、正当性や適切性、総合性、客観性、ほかの視点などからの検証などについて説明するものではない。振り分けの結果と自分が振り分けた理由をいつまでも言い続けるだけだから、自分の意見を撤回したり訂正したりすることは必要なく、その結果彼らの主張があたかも「正しい」ように見えてしまう。

 例えば大学院のゼミや研究所での学者同士での議論において、参加者が様々な視点から意見を出し合い建設的な議論を通して、新たな発見やより適切な結論を導きだしていくという場に、彼らが参加している様子が私にはイメージができないのである。そもそもベターなもの、ベストなもの、真理などがあり、それを探るため、確認するために議論が行われるのだから、「論破」するとか(「議論」ではなく)「討論」、「議論に勝つ方法」などというのはおかしなことで、それらは単なる子どもの「口げんか」に過ぎないだろう。