「ジェンダー」は、「社会的性別」と訳されるらしい。立憲民主党は「ジェンダー平等」を訴えており、立憲民主党の代表選候補者の一人は「執行役員の半分女性に」と話す。私は恐ろしさを感じた。盲目的に流行に乗ればうまくいくと思っている。結論に反対はしないが、そうなるようにするための順序が違うだろう。

 経団連に入るような日本の大企業の社長のほとんどは男性である。「今はジェンダーの時代だ!」といって、日本を作り引っ張ってきた1500社余りの企業の社長の半分を女性に変えたら、その会社はどうなり日本はどうなるか、想像に難くないだろう。国家公務員試験や弁護士試験、大学入試などの能力選考試験において、女性の合格者の割合を半分にしようなどいう論理、発想は理解できない。官僚の質を落として日本社会をどうしたいというのか。能力試験に性差は関係ないはずである。実は、「ジェンダー肯定派」が性別で差をつけているのではないだろうか。国際捕鯨委員会のように、他意があって世界的な流れとなっているのではないかとさえ勘ぐってしまう。

 日本の政治の世界においても、能力云々ではなく「女性だから」ということで、毎回数名が大臣になる。しかし女性だからといって無理やり大臣にすると、オリンピックでの言動が目を引いた「愚か者めが~」大臣や省を去るぎりぎりまで言動がかわっていた防衛大臣、何をしたのかわからない上智教員だった少子化担当大臣など、能力のある他の男性議員がやった方が国のプラスになったのではないかと私は思うのである。もちろん、派閥の長たちが邪魔をしなければの話であるが。

「まずは女性の割合を半分に」という発想は、もう終わりにしたいものである。「まずは女性の能力を高めるための女性たちの意識改革」である。そして、「家にいて家庭をしっかり守る」ではなく、男女ともに積極的に社会に出て仕事をするものだと思うようにしなければいけないだろう。女子学生も「将来、かわいいお嫁さんになる~」ではなく法学部や医学部なども目指して小さい頃から死に物狂いで勉強しなければいけない。そうやって、能力的に男性と同じ状態になってからがスタートであろう。というより、そこまでなれば自然と「男女平等」になっていく。欧米では、国会議員や会社の社長の割合が日本よりはるかに高いが、それは欧米の女性たちの意識が、日本の女性の意識と全く異なるからであろう。

 世の中がジェンダー一色となり、男性がミニスカートをはいたり、ミスユニバースがなくなったり、オリンピック競技で性別を変えた人が入り混じったり、男性が女性トイレを使いたいと思ったら使ったりなど、性の枠がなくなって自由にできる世の中では、いつか必ず行き詰るような感じがする。自由と自己中(思った通りに行動すること)は、表裏一体である。今日も、テレビでジェンダーの番組をやっていた。見た人は、それを目指さないといけないと思ったであろう。様々な問題点があり、順序がある。論理的、総合的、合理的、専門的な視点からの検討が必要である。「まずやろう」ではなく、逃げずに大事なことから議論や検討をすることが大切だと思う。