ジェンダーやLGBTが花盛りである。「人権」や「自由」と言った言葉と同じように、「ジェンダー」や「LGBT」という言葉が、水戸黄門の印籠のような力を持ち始めている。心配なことは、これらの言葉が、ただの「わがまま」、「自己中」を無条件に正当化するための免罪符となっていないかということである。
人は周りの影響を受けやすい。というか、勉強やテレビ、学校、両親など、他からの影響のみで自分というものが出来上がっている。それらを自分で好き勝手に選択し調整しながら「自分固有のもの」としているだけである。一言でいえば周囲の影響だけでできた生物である(身体は別にして精神に限って言えば)。ファッションや文化の流行、催眠術、集団パニック、宗教なども、他から影響された単なる「思い込み」で、自己の中において単独で自発的に発生したものではない。
今まで数千年にわたりほとんど見られなかったのに、なぜここ数年で突然ジェンダーがもてはやされたりLGBTの人が一気に増えたのだろうか。本当に社会全体が翻弄されるようなことなのか、家族の意義や(仕事やスポーツなどにおける)合理性の点からもこららの言葉に社会における強力な免罪符を与えてよいのか、学問的に(医学や社会学など多くの点から)検討する必要があるように思う。正しさ(「正しさ」という言葉は比較や基準の問題で怪しいのであるが)や合理性、理想などは、決して声の大きさや荒々しさ(強い抗議や主張)で決まるものではない。
チンパンジーが自分で性処理をしている映像を見た。べつに相手の性など関係ない。人間も、自分自身をどう思い込ませるかの話であろう。そんなことを考えているうちに、結論はどうなってもよいがせめて長期的な視点で学問的に(医学的に嘘ではないのか、社会学的に種の保存や家族の意義など)検証を行ってもよいのではないだろうか。
LGBTやジェンダーを主張したり擁護したりする人達の多くが、声を張り上げ興奮状態で訴えたり、キレ気味状態で偏った自己中の論理を繰り返したりすることに違和感を感じるのである。