パラリンピック開会式が行われている。
世界中で見ている人々にとっては、パフォーマンス(出し物)の意味も崇高な理想も関係ない。ただ、見て面白いか面白くないかだけである。
4年に1度の大イベントで、大学の学園祭のような演技をだれも見たくないだろう。それに、片方のつばさがない壊れた飛行機が目立つ演出だった。片方のつばさのない壊れた飛行機では、役に立たない。しかし障害者は一部が他の人と異なっていたとしても、決して壊れて役に立たないということではないだろう。健常者と異なった部分が健常者と同じようにならなくても、その人はそのままで役に立つことがたくさんある。障害者を、他人と違う部分も含めて完璧な一人の人間として認識した方がよいと思う。そもそも障害がなくても人によって多くの違いはあるし、私と車いすのパラリンピックテニス選手が試合をしたら私は負けるだろう。
障害者は決して壊れた役に立たない存在ではない。壊れた役に立たない飛行機とは違う。私は障害者を見ても「かわいそう」などというような感情は起きないが、障害者を片方のつばさが壊れている役に立たない飛行機に例えた演出を見ていて悲しくなった。
〈追記〉 後半を見終わった。簡素でお粗末なものではなく、音楽(ギター)や2人のダンスなど一つ一つがしっかりとした出来だったし、なによりも理屈なしに見ていて楽しかった。光の演出もかっこよく、まじめに作られていた。