党首討論において菅総理大臣は、東洋の魔女の回転レシーブを出して思い出話を語っていた
個人の回連レシーブなどの主観的な印象などはどうでもよい。かえって、自分の主張を無理に通そうとする作為に感じられる。
オリンピックは思い出になる、勇気を与えてくれるということを言いたかったのであれば、これまた違う。平時であれば、オリンピックはこういうものだとアピールするのも盛り上げる手段の1つとなるだろうが、今回の討論の論点は一方の良さをできるだけアピールすることではなく、多くの死者や重症者をだしているコロナ禍の中で行なわれるオリンピック開催の影響、実施の可能性の議論である。両者の事実を出し合い、科学的な影響の可能性を共有し、現実的に対応可能かどうかを議論する場であった。漠然とした自分の思いや個人的な希望を主張し続けたり、科学的な事実を言われても「私はそうは思わない」と話したりするようなことではないだろう。
余談だが、ネットを見ていたら立教と法政(どちらも法学部)の両方に合格したがどちらに進学したらよいかという相談があり、自分は菅総理の後輩にはなりたくないから立教、というものや長嶋一茂の後輩になりたくないから法政などの回答があった。究極の選択であるが、これを見て菅氏は国民の中で、「名実ともに・・・」と言ったところまで来てしまっていると感じた。地元秋田県人も、彼が言葉を発し行動を起こすたびに、肩身が狭いのではないだろうか。秋田県民は、秋田県の人の誠実さや判断力、行動力、表現力などはあの程度なのかと、全国民から思われたくないだろう。
総理大臣は国にとって非常に重要である。日本の総理大臣は能力に関係なく、派閥の力学や議員同士の人間関係、おやじさんに世話になった二世だからなどの理由で選ばれる。国や国民のことを考えると、それでいいはずもない。総裁選挙になると、素人のような経験の少ない議員が立候補したりする。自民党は、「総理大臣」というものを軽く見すぎていると思う。