大坂なおみ氏の1年間の収入が66億円で、その内の61億円は試合以外での収入だったという。
インタビューを受けたりテレビに出演したりして注目を浴びることで企業の商品を宣伝して61億円を得るか、注目を浴びないようインタビューもうけずに試合以外には一切表に(テレビや対談などにも)出ないようにして試合の賞金5億円だけを得るか、その選択は彼女が行なったはずだ。大金はもらうが試合以外はやりたくないという気持ちは通用しない。なぜ彼女のような人が見られるようになったのだろうか。
彼女がオリンピックに出場するか話題になっているが、いま彼女は、自分が表明したこの前の試合の棄権理由(うつ病?)とオリンピック出場の理由の整合性をとることに苦しんでいると思う。コロナとの闘いと絡めたかっこいい理由をつけてオリンピックに出場すると私は想像している。
極論を言うが、高度成長時代の日本人は秩序を保ちルールを守りまじめに前向きに働いてきた。異常な犯罪もあまりなかった。今の日本人は街にごみを捨て、道端で酒を飲んで騒ぎ、法律や道徳的ではない行動をかっこつけて破り、政治家のようにおかしな理由をつけて自分勝手に振る舞ったあとに責任逃れを言う人が多くなった。秩序が薄れ混とんとした社会になってきた。
理由は過去にもこのブログで書いたので詳しく書かないが、世界は、「自由」や「人権」、「多様性」、「時代の流れ」、などの言葉のもとに、「違法でなければ何でも許される」という傾向がある。個人主義というかばらばらというか、個人の言動を尊重しすぎている。そのために犯罪も多くルールをあまり守らない人が日本に比べて多い。一方、日本は道徳心やマナー、相手への思いやり、協力、などが重要視される社会であった。別に日本が世界の国々に合わせる必要もない。様々な日本の文化や風習が世界に認められ、真似をされているように、社会の在り方もいずれ真似をしてもらえるようになるかもしれない。日本も他国のようにゆがんだ「自由」や「自分らしく」、「ありのままに」などを定義なしの完全フリーで盲目的に推し進めていった場合の将来の日本の社会を想像することは重要なことである。
残念ながら、日本も外国のように、次第に自己中の人々が増えてきた。やはり原点は、今の大人たちが子どもの頃に受けてきた、「個性尊重」、「自己表現」の名のもとに行われてきた「自己中教育」、「言い訳練習」が今の状況を作りだしたと私は考えている。そしてその教えは、その親たちが育てた自分の子供や孫たちにしっかりと受け継がれている。教育は人を作ることであり、その国の社会を左右する。文部省の判断は非常に重かった。
以前、伊藤四朗氏がジェンダー問題について、子孫を残せない家族の在り方について疑問を投げかけていたことが、私の心にいつまでも残っている。大坂氏の言動や世界の状況、そして欧米化しつつある日本社会について、極論化しその将来を検証してみることで、本質やあるべき姿が見えてくるだろう。