厚労省の職員23人が夜遅くまで居酒屋で宴会をやっていたことについて、厚労大臣が「私からも深くおわびを申し上げる」と謝罪し、関係した職員を近く処分するという。

 今回は大臣にとって自分のことではないので、処分をすることに迷いはないだろう。

「お詫びを申し上げる」というのは、あくまでも不適切な行為や違法行為についての謝罪の言葉であり、責任を取ることではない。たった数文字の言葉を発するだけで責任を取ることなどできるはずもない。したがって、その後に、「だから停職にする」とか「だから減給にする」などの責任の取り方の内容が続く。

 しかし、総理大臣をはじめ、政治家や官僚たちは、自分の不適切な言動については逃げられなくなると最後は「ごめんなさい」をするが、だからといって責任をとることは絶対にしない。おかしなことだ。まるで駄々っ子と同じである。「ごめんなさい」の言葉だけで許されるのは、まだまだ未熟で保育園や小学校でいろいろと学んでいる最中の幼児や小学生だけだ。政治家や官僚になると赤ちゃん返りをするようだ。

 マスコミや野党、国民が1度でも許すと、それは既成事実となり政治家や官僚たちは都合の良い慣習としてしまう。これを始めたのは、私の記憶では次から次へと問題が顕在化して対応しきれなくなった安倍前総理が始めた処理方法ではなかっただろうか。「ごめんなさい」が責任を取ることになるという国会の慣習は、今からでもみんなで徹底的に非難して無くした方がよいだろう。

 この慣習によって政治家や官僚の辞任や懲戒処分は無くなりつつある。教員や地方公務員の懲戒処分もなくなってよいのだろうか。この考えで行くと、最後は刑法も拘置所も無くなるのではなくなってしまう。「ごめんなさい」「申し訳なく思っている」の言葉で、責任を取ったことにしては絶対にいけない。

 多人数の夜の宴会もそうだが、政治家や官僚は神様気取りで自分たちだけは何をやってもよいというのが成立している今の日本社会がすごい。非難しておかしなことをやめさせる機能が、週刊文春以外にはない状態だ。

 政治家たちが「申し訳なく思っている」の一言で終わらせるのはもう止めにしよう。「説明責任(=嘘や責任の押し付け)」を果たすことで終わらせるのも禁止だ。責任逃れの詭弁などを話させることが、責任を取ることになるはずもないだろう。マスコミや記者達もこの言葉を使うのはもうやめた方がよい。昨日は、自ら部下に処分を行いながら、大臣(政治家)自身は自らの責任については開き直って「(辞任せず)引き続き努力をすることが責任を取ることだと思っている」とはっきりと懲戒処分の必要性を否定してしまった。ここまで堂々と言える感覚は、もう浮世離れしたものだ。懲戒処分も刑法も拘置所もいらなくなる。犯罪を犯した人も、牢屋に入らずに「引き続き社会でがんばっていくことで責任を取りたい」、「これからも仕事を頑張っていくことで責任を果たしたい」と言えばそれで済む。恐ろしい発想だ。政治家たちはよく考えついたし、考えついたとしてもよく口に出して公の場で言えると思う。しかし、この状況を成立させたのは、それを見て見ぬふりをして許可してきた国民、マスコミ、野党、専門の学者である。