官僚たちは、都合の悪いことを指摘されると「見ていないから、わからない」と言って逃げる。
人が知っていることや話すことのほとんどは、若いころに学校で教師から話を聞いたり教科書や教材を見たりして習ったものであったり、新聞、テレビ、ネットなどで見たことであったり、本や論文で調べたことや議論や専門家の講義などから聞いたことであったり、職場では部下や上司から連絡や報告をされたことであったり、自分の肉眼で直接見たことだけを知識として持っていたり話たりしているわけではない。むしろ、直接見たことによる知識の方がごくわずかであろう。文献を見て新しい技術を発明したり論文を作ったりしていくこと、何も現象を見ないで判断を下す最高裁判所をどう考えているのだろうか。
例えば、群馬県に住んでいるある人に、「群馬県民のほとんどは県民税を払っているのか」と聞いて、「見ていないからわからない」「他人がどうやっているかなどわからない」というのは適切だろうか。ほとんどの人は払っていないかもしれないという判断に至るのだろうか。県民税のことや徴取のしくみ、役場の仕事、納税におけるこれまでの自分の経験など簡単なことがある程度分かっていれば、そこから多くの県民は払っているだろうと想像できる。そうすると、「あくまでも想像で、ほとんどが納めているかわからない」と言うのだろうか。
逮捕されるようなある法律を国民のほとんどが守っているか聞いても、正直に答えると不利になる人は「直接見ていないからわからない」と逃げるだろう。もちろん犯罪者もいるから0ではないが国民全体の数から考えるとその割合はごくごくわずかである。それもニュースで見る数からの推定になるが、自分が見ていないから「わからない」というのだろうか。
これでは、「見ていないだろ~」「証拠は?」「それは何時何分ですか」などという小学生の口げんかと同じであろう。ここまでくると、話し合いの目的が変わってくる。
他の様々な情報から当然わかることはたくさんあるのである。もしそれを否定するのであれば、直接見たことによって得られた知識以外のことを自分が口にすることは一切やめた方がよい。そうなれば、何も話せなくなるだろう。
自分の都合が悪くなった時に、「見ていないから、わからない」という幼稚なごまかし言葉を使うのは、建設的ではないし大人が言うことではない。政治家や官僚が言うのは、禁句にしようではないか。