安倍総理は、憲法改正について「必ずや私の手で成し遂げたい」と述べている。
憲法改正をするかどうかは、議論の結果によるものである。
議論を始める前から憲法改正を成し遂げるなどと、改正ありき、結論ありきの宣言はおかしなことである。安倍総理は、「これから行なう憲法論議は茶番劇であり、結論はもう決まっているよ~」と自ら公言しているようなものだ。
彼は責任を絶対に取らないだけではなく、歴史に名を残したいという俗物根性もかなり強いのだろう。これ以上非論理的なことや詭弁を言わなくても、もうすでに十分、嘲笑と共に国民の記憶や歴史に残る総理大臣となっている。
「安倍総理」という言葉から、国民はどのようなイメージを持つだろうか。私は、独裁政治、圧力、不正、無責任、嘘、詭弁、他人や他党への暴言など、よいイメージがない。最近では、彼の顔がテレビにアップで映し出されると、自然と目をそむけてしまうようになった。嫌いというより、見てはいけないもののように感じられてしまうのかもしれない。政治家を辞めたあとは、一人の人間として元のように明るくてとてもいい人に戻るように思う。日本では、総理大臣がころころと変わった。彼はそれを見て、長く総理の職にいられる方法を考えたのだろう。しかし、彼が考えついた方法は、頼もしくて信頼される存在でいることではなく、圧力や強権で他に有無を言わせない逆の方法であった。教員で言うと、信頼される教師ではなく、威圧や暴言で子供たちを脅して学級をまとめる(ようにみえる)方法である。彼は安易な方法、禁断の方法を選択し突き進んでしまった。